16/07/2007 マチネ
前回の「激情」を観て「二度と観ない」と書いたにも拘らず再訪。
岩瀬亮とテレビ。これだけで前半40分観ていられて、
「もしかするとこれで最後までもたせたらすごいぞ。ひょっとしてありえるぞ。他の役者は全て「声の出演」だな」
と思ったのだが、
・ それくらいにテレビの使い方が効果的で、①観客の意識を分散させる ②舞台上の時間のペースメーカーとなって、時間を流す役割から役者の意識を引き離してあげられる ということを、他の役者の助けなしで達成していた、その一方で、
・ 実は、舞台に乗っている役者の数が増えても、必ずしもそれまで以上に面白くならなかった落胆、もあった。要は、役者がいなくても、場が成立しちゃってる、という、由々しき状態が生じかねない感じがしたのだ。
暗転10回、シーン数11。10個目のシーンで突如テレビの時間が逆行して、シーン6の番組オンエアー、もしダメ人間街道をまっしぐらに突っ走っていたらこうなっていた、「こうなるはずだった」シーンをみせて、一日が終わる、という仕掛け。
「のびたの夢オチ」
だ、と割り切って劇場を出たが、
ひょっとすると、これは、突っ走るのが現実で、中途半端な生活が続いていくというのは、実は、落ちて落ちて落ちまくったヤツが刹那かいま見る夢なのではないか、と。
そういう解釈も許されるなら、そうしたい。
(でも、そういう解釈を許さないような元カノの台詞が一つあったようななかったような...)
主人公の単線ストーリーで1時間50分は苦しいか。岩瀬+テレビで1時間20分くらい持たせると、もしかするととんでもないものになっていたかもしれない気はする(いや、テレビを使う手管なんて、もうどっかで使い古されているのかもしれないけれど...)。
あ、ちなみに、この芝居には娘は連れてってません。念のため。
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