29/09/2007
やっぱり、今回も最後まで入れなかった。
芝居の入れ子の説明も(役の立て方を含め)くどい気がしたし、携帯メールを使ってみるのも、新奇な試みというよりは興味本位の帳尻あわせのようで。
でも、お客さんは喜んでいたようだ。
そうすると、時々頭をもたげる考えなのだが、「芝居の文法」ということについて考えざるを得ない。要は、文法が違う芝居にははなから入り込めない。文法が一致する芝居には、巧拙の判断、好悪の自覚がし易い、という意味である。
こないだ見た「ワワフラミンゴ」は全く文法の違う芝居で、結果観ている途中で「落ちた」わけだが、今日のこの芝居は、時々僕の文法に擦り寄ってくる感じがして、それが居心地悪かった。
その「擦り寄り」が、例えば携帯メールであり、入れ子の説明である。そういうことが無かったなら、舞踏を見るようにもっと素直に見れたのかもしれ ない(或いは、本当に「落ちて」いたかもしらない)が。しかし、「何だかわからん」芝居が続くと、却って自分の脳味噌の硬さのほうが気になってくる。ほん と、気になる。
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