08/09/2007 マチネ
台風9号で被害を受けた方々には非常に申し訳ないのだけれど、台風の通過、というイベントは、あたかも骨太のストーリーを持った芝居に似る。
骨太、というのは、実は、陳腐、ということにも通じる。つまり、「発生→接近→上陸→通過→台風一過」という筋書きは毎度繰り返され、それに疑いがもたれることも無いし、持つ必要も無い。芝居の筋書きの「ほれた→はれた→切れた→云々」の繰り返しと同様である。
ところが、その大きな筋書きの中で、当事者達は「自分の視点で自分が好むところの細部だけを切り取って情報を取り込む」のである。台風であれば、 自宅近くの天気、勤務先の天気、電車運行状況、道路状況云々。あるいは、雨雲レーダーの小さな雨雲のきれっぱしが自宅にかかっているか、知人の家にはどう か。真っ赤で表示されている雲はどこなのか。例えていうならそういう細部である。
芝居であれば、役者の身のこなし、ちょっとした台詞、小さな予期せぬ裂け目、そういうものである。
何が言いたいかといえば、細部がある限り、ストーリーは芝居を妨げない、という意味である。一方で、細部の集積で台風を説明することが到底不可能なのと同様に、細部でストーリーを説明しようとする芝居は破綻する、ということである。
で、何でそんなことを考えたかというと、どっかの芝居のアフタートークで、田野氏が「ストーリーをやりたい」と言っていたのを思い出したからだ。
大抵の場合、ストーリーな芝居は細部が全体の奴隷となって観るに堪えなくなってしまう、そこをどう解決するのかが興味の中心だった。
田野氏の答は、「全速力で走り抜ける」ことだったように見受けた。もともとの二幕もの芝居を2時間一本勝負で。時間をかけて遊ぶ余裕を役者に与え ず、筋力で走りきる力技に出たと見る。若い役者陣と合わせ、恰も「小型だが強い勢力を保ったまま時速30KMで北上中」の趣。そしてそれは、この芝居につ いて正解だったように思える。2時間、時計を見ずに終わった。見終わった後は、Bloc Party のアルバムを2枚続けて聴き終えた、という感じ。
全体にストイックな中でバビィの良く動く眉毛が暴れたがっていて、それを上手く不発させて良いアクセントにしていた。仲俣氏の広い背中が印象的だ。その他役者陣もよし。OASISやBadly Drawn Boyという選曲はまんまイギリスで、冷静さを失ってしまったよ。
一つ気になったのは、戯曲から伝わってくる、あるいは、イギリスにいれば極々普通に体験するところの、イギリス女性の「肉欲アブラギッシュ」感の、舞台上での欠落か。
女優が「いやらしくなければならない」とか「色気が足りない」とか言っているのではなくて、むしろ、
50になって12歳年下のボーイフレンド、とか、金曜日は香水増量、リフトが臭うぞ、といった、イギリスのオフィスでごく普通に起き、語られていることを、日本で舞台に載せたときにどう料理するか。だって、日本で「肉欲万歳!」とか、あけっぴろげにいってもなぁ。
逆に、ふにゃふにゃ、うじうじした男は日本の役者の風土によくはまるんだよな。それを評して、「だから翻訳劇はゲイものが良くなっちゃうんじゃない?」というヒトもいたが。
でも、そういうところも踏まえ、また、言葉の選び方の繊細さにも支えられ、「翻訳劇」も楽しいじゃないか、と思ったことです。楽しかった。
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