2007年9月17日月曜日

サンプル カロリーの消費

16/09/2007 マチネ

何だかとんでもない芝居だった。2000年代後半のゴドー待ちはこんな形をとったのか、という気もした。理由は後で書く。

ほしのホールは、「小劇場」演劇にかなり力を入れている小屋なのだが、何分にも妙に間口の広い舞台で、観ていて収まりが悪い。ここで芝居を何本か 観てきたけれど、どうも、しっくりこなかった。サンプルがここで演ると聞いた時には、一体、春風舎全体が舞台上に2つは入りそうなこの小屋で何をするつも りだろう、と思ったのを覚えている。

舞台上、カーブした壁1枚。高さ2m、その上は何も無い空間。なんとも人を食った作りだ、というのが第一印象。人が出てくるといかにも人が小さい。遠い。でも、そこを自覚した芝居の作りになっている。

乱暴に括ってしまうと、「通行人の芝居」である。主役やワキ役はなくて、通行人しかいない芝居である。

渡辺香奈が引いたチョークの輪に沿って、上手から下手へ、下手から上手へ、通り過ぎる、あるいは、しばらく舞台上にいたりする。部屋の中のシーン 等々あるにも拘らず、役者がそこに『属している』感じはしない。それは、アフタートークで松井氏が「観客の視点をある特定の視点に移入させない」と言った ことときっとリンクしていて、個々の演技がいわゆる「現代口語演劇」なのに、全体として、薄い透明パネルを2枚立てて、その狭間で演技しているような薄っ ぺらさがある。それが、「通行人」くさい。そこに、昨日見た「イキウメ」の芝居風に言えば、「自と他を絶対に乗り越えない仕掛け」が設定されている。

加えて、役者個々の力は充分あるにも拘らず、松井演出は役者達が「通行人1」「通行人2」以上の個を発揮することを巧妙に禁じているように見え る。役者を見ていても、手先とか足先とか、そういう細部よりも、「佇まい」を意識させる。それは、ほしのホールで演じるという制約からなのか、とも思えた けれど。

通行人しかいない芝居なのだから、筋がどこかに行く、ということはない。それで、役者達はチョークの輪を回り続ける。どこかにたどり着く、という ことはない。歌は、手に入れたと確信した瞬間に歌でなくなる。役者達は決して待ちはしない。移動する。でも、それは、「進もうか」「あぁ、進もう」2人、 進み続ける、位の意味でしかない。

呆けた母と介護人のカタチはそのまま、PozzoとLuckyであり、HamとClovである。いつの間にかベッドの馬車は2頭立てになって、後ろから馬子も付いてくる。そうだ、きっと、オリジナルゴドー待ちのあの2人も、くるくる回っているだけだったのだ。

そうか。この芝居は、ゴゴーとディディが出てこないゴドー待ちだ。PozzoとLuckyと子供しか出てこないゴドー待ちだ。でも、Pozzoと Luckyはそれぞれ複数いる。そして、一つのPozzo&Luckyを目で追うことを許さず、複数のペアが出会う場所を、シチュエーションを変 化させながら舞台に載せているのだ。

なぁーんて、屁難しいことを考えてしまうような芝居ではあった。「通行人芝居」といったって、大枠の筋はあるし、キャラもたてているし、観ていて 緊張感を解かせない作りは素晴らしい。冒頭の渡辺香奈の立ち、米村・古館・古屋のそれぞれ種類の違う凶暴さ、等々、見所も多い。いや、ただの変態芝居じゃ ない、ってことが言いたかった訳なんです。今までほしのホールで観た芝居の中で、群を抜いて素晴らしかった。

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