2007年6月24日日曜日

弘前劇場 冬の入口

23/06/2007 マチネ

帰日して3度目の弘劇だ。いつ観てもそうだが、長谷川戯曲を福士賢治以下、永井、山田、長谷川と続く錚々たる弘劇役者陣が演じる芝居なんだから、基本的につまらなくなるはずが無い。

今回も、弘劇の、弘劇による、弘劇らしい舞台で、それだけでもう合格点になる、そういう、良い芝居だ。土曜のマチネであの客の入り具合はありえない。もっと広く観られてしかるべきである。

ただし。観ていて、一番苦しい舞台ではあった。
一幕一場面ものの現代弘前演劇が、何だか袋小路に入り込みつつあるのではないか、そういう予感がする。
「マンネリ」という言葉は当たらない。
むしろ、長谷川氏は、一幕ものの制限や、固有名詞を並べてみたり難しいことをポッと喋らせてみたりといった長谷川節へのこだわりを保ちながらも、マンネリに陥らないことへの意志をかなり強く持って戯曲を書いている。ように思える。

だから、「父の葬儀に妾の子がやってくる」という、まさにクリシェの塊のようなプロットをあえて持ってきても、そんじょそこらのマンネリ芝居にはなりえない。

問題は、すなわち、僕が苦しいと思ったのは、その、マンネリに陥らないためのミューズを、長谷川氏がひたすら自分の中に求めていっているのではな いかという懸念である。そして、そうやって自分の中だけを突き詰めていく限りにおいて、いつか井戸が枯れるのではないか、という、イヤーな予感である。

マイルス・デイビスが常に自分の周りに若くていきの良い才能を置いておいて、それらの才能の美味しいところをつまみ食いして自分のサウンドに仕上げていったような狡さは、コルトレーンのようになってしまわないためには非常に重要なのではないか。

あるいは、もし、長谷川さんが息苦しさを万が一感じているのであれば、一回、「外してる」といわれてもよいから壊してみるのも手ではないか?

斎場から見える沼の景色が、役者達の目にどう映っていたかは僕は知らない。でも、僕の思い浮かべるその沼は、美しく、さびしく、そして、水量を減 らしながら寂しい時の移り変わりを水面に映していたのです。上流の水源からパイプを引いたっていいじゃないか。それでこの美しいものが様々な表情を見せ続 けてくれるのであれば。

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