2008年6月15日日曜日

SPAC 鳥の劇場 剣を鍛える話

14/06/2008 ソワレ

物語と舞台芸術の幸福な結合。劇場・観客・天候・魯迅・音響・役者の動き・語り、全てが何を足しても何を引いてもこうはならなかっただろう、とでもいうかのように結びついて、素晴しいステージだった。

糸を紡ぎながら・洗濯しながら・炊事をしながら、子に物語をする母親。酒を飲みながら物語を「読む」親爺。物語られる登場人物たち。観客はそれらを見比べながら、自分の立ち位置を確認しつつ、いつしか物語の中に引き込まれるのだが、その引き込み方の巧みさは、素材の選び方と場の設定の仕方に多くを負っている。

「語られている物語の舞台は、多分、中国なのだろう。でも、おおきみ、って、どこの言い回しだ?」というのと、「語られている現場として提示されている場所は、おそらく、日本なのだろう。でも、一体、いつの時代だ?」という、2つの引っ掛かりが全体に覆いかぶさって、それが、物語提示型舞台にありがちな「突っ込みたくなるポイント」をうまーく回収していく。

例えば、語りの中で、現代口語演劇なら「多分」というところ、「おそらく」という言葉が発せられると、普通は、「あぁ、翻訳劇、っぽい」と思うのだけれど、それが、①魯迅の語りだからか、②中国の語りだからか、③母親の口伝だからか、と思ううちに、スーッとどこかに回収されて、逆に物語世界に引き込まれていく。斬られた首が舞う場面も、奇術師がメガネをかけ巨大な蝶ネクタイを締めているのも、全体の物語の構造の中できっちり成立していた。

凄く乱暴に言うと、作・演出の意図は、物語を語られるあの気持ちよさの再現にあると思われた。耳から入った情報をもとに子供が織り上げる妄想・想像の世界をどうやって舞台に載せるか。しかも、ここの観客の想像力に出来るだけ多くを委ねながら。そういう、ちょっと考えると、自分の個人的な気持ちよさにとどめておいて共有を諦めてしまいたくなる様な難しい連立方程式を、こうしてすんなりと舞台に載せてしまった手管に、素直に脱帽した。

加えて、魯迅の物語→語り手の物語→舞台を観る観客の物語 の入れ子構造の中に、図らずも、あるいは、測ったの如くにカラフルなノイズが埋め込まれて、まるで魯迅の物語の朗読をSP盤78回転で、戦前に耳を澄まして聞いた子供達のことを想像しながら聴いている、そういう気分にもなった。幸せな場だった。

作・演出の中島氏は、実は彼の大学時代から知っていて、だけれども一緒に芝居することもなく、また、留年の回数の多寡もあって卒業年次も異なり、20年近く彼の居場所について全く知らなかった。そういう人の芝居を観るのは、「気に入らなかったらどうしよう」というネガティブなドキドキ感が付きまとう(自分が現代口語演劇に入れ込んでいれば尚の事である)のだが、いや、身内びいきじゃないが(身内というほど近しくもないのだが)、素晴しい仕事である。素晴しい。という思いとともに、自分の過去20年を思って自責の念を感じないでもない。クヤシイ!それが、新宿に向かうバスに乗り込む直前、僕の頭の中に詰まっていた単語です。

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