2008年11月18日火曜日

観劇と想像力 再び東京デスロックのカステーヤについて

最近、知人の日記を読んでいたら、こんなことが書いてあって、月並みではあるが、目から鱗が落ちた。「今更そんなことに気がついたのか」と言われちゃうかもしれないけれど。

http://www.letre.co.jp/~hiroko/diary/Oct2008.html#1029

ちょっと長いけれど、該当部分を引用させていただくと、

「登場人物についての情報が増えていかないシーンでは、観客は、この登場人物2人はどんな関係なんだろう?と想像をどんどん膨らませていく。でも無制限に興味を持ち続けることはできないから、あまりにも情報の増えない状態が長いとあきてしまう。かといって、最初から情報を与えすぎると、説明的なつまらない作品になってしまう。客席に届く情報をうまく操作して、観客の想像力を適度に広げたり、それが広がりきってしまう前に狭めたりするのが演出家の仕事である。観客の想像力がどこまで広がり得るものかという幅は、商業的な演劇では狭い(=わかりやすい)し、実験的、前衛的な作品では広いが、いずれの場合でも、観客の想像力の幅は注意深く見積もる必要がある。特に実験的な演劇の場合ありがちな間違いは、観客が自分と同じ想像力の幅を持っていると思い込んで作品を作ってしまうことだ。観客の想像力を考慮しない作品は、ペンを1本舞台上に置いて「可笑しい」と笑い転げているようなもので、共感を呼ぶことはできない。」

東京デスロックの "Castaya" を観て以来、自分にとって芝居が面白いということがなにかについて考え続けていて、実は、秘かに思っていたのは、
「もし多田淳之介が、何もしゃべらない役者じゃなくて、何もしゃべらない椅子を舞台の上に45分間置いて、それが芝居だと言い張ったら、それでも自分はそれを面白い芝居だとして観ることが出来るだろうか?」
ということだった。いや、もっというと、その感覚は、昨年の "Love" で、自分の想像力の幅を "Love"が超えかかっているのを感じて以来、ずっと続いていた、といってもよい。
それに対し、 平田オリザ曰く、「極端にそれをやったら共感を呼ぶことは出来ない」。そうか。そうだよな。言われてみれば。

誤解の無いように言えば、「想像力の幅」というのは、「想像力の絶対値・偏差値」ではなくて、「想像力の働く帯域」である。個々人で、想像力の働くきっかけとか、ジャンルだとか、そういうものが異なるのであって、その、「想像力の帯域」の違いに無頓着な芝居は、いわゆる「客を変に選ぶ」芝居になっちまう、ということなのだろう。いや、もちろん、小生の遠く及ばぬ妄想力をお持ちの方も、数多くいらっしゃるのは分かってますが。

ま、一方で、「観客が自分と同じ想像力の幅を持っていると思い込んで作品を作ってしまうこと」は、実験的な演劇に特有の現象ではなくて、実は、大抵のテレビのディレクターやつまんない芝居の演出家達は、①観客は自分と同じ想像力の帯域を持っているor持っているべきである ②観客の想像力の絶対値・偏差値は、自分の想像力の絶対値・偏差値より低い(自分のほうが感度が高い) と思っているフシがある。あるいは、もっとひどいのになると、観客の想像力の帯域・方向感を、自分のこれと信じる方向へと「矯正」「教育」してくれちゃおうとする人たちもいる。「この~うたは~~、悲しい歌だよ~~、さあ、泣け~」系のミュージカルとかはそうだと、僕は思う。

逆に、ケラリーノ・サンドロビッチ氏のキャパシティはすっごく広くて、あらゆる想像力の人々がアクセスできる帯域の芝居を作ってしまう。そのサービスは、すっごく長い上演時間になって現われてしまう。

等々、この、「観客の想像力の幅・帯域」というフレーズを軸に考えると、時として混濁しがちな自分のスタンスについて、整理がつけやすそうな気がしたので、ご紹介しました。

それにしても、こういうことを整然と考えているところに、平田オリザの凄みというか、ズルさというか、を、改めて感じる。こういう軸を過たないからこそ、青年団の芝居は誰にでも進められる水準を維持できるのか。なるほど。

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