15/11/2008 マチネ
期待とがっかり度のギャップという意味で、今年ナンバーワンの芝居。2時間15分、「早く終われ」が9割、「万が一面白くなる可能性もある」が1割で過ごした。
「(「友達」を)読み始めた頃の私は、必ずしもそうは(「友達」という戯曲がとても面白いとは)感じていませんでした。」
という当パン上での岡田氏の意見は、率直だし、共有できる。また、
「暴力についての問いかけであるらしいということ、それはまあおいといて、目の前の上演行為、役者がそこにいること、そしてこの劇場の中でパフォーマンスをするということを、まずは何よりも見て下さい」
というくだりも、圧倒的に正しい。僕のような「虫の眼」の観客にとっては。
でも、上演の面白さは、名の売れた俳優の紋切り型やヨガやちょっとした奇態なポーズや気取ったポーズにあるとは、僕にはとても思えない。俳優達本人どもが「どうです、これ、面白いでしょう」と気負って、あるいは気取って観客に提示してみせる動きや台詞回しが、観客の想像力の可能性を開くのではなくて、却ってそれを細らせることについては、演出・俳優、どう考えていたのだろう?取り立てて若松氏をけなす目的で言うのではないが、ヨガのポーズで台詞を言うことは、ちっとも面白くない。上海雑技団を呼んできて台詞言わせたほうがよほどアクロバティックなことが出来るはずで、でも、岡田氏がそれをしなかった理由は、(プロデューサー側の事情とは別に)きっとあるはずなのだ。
前半、上手奥のベンチに腰掛ける呉キリコのたたずまい、良し。柄本時生の脱力感、良し。ただし、稽古中はもっとよかったに違いない。稽古中に良かった自分を「なぞる」作業に入っている気配が臭ってきた。
個々の役者が台詞を言う前に、必ず、2秒ずつくらい、間を入れていた。
これは、「現代口語演劇」では詰めさせられる「間」なのだけれど、僕には、恰も、「友達」の上演に名を借りた、現代紋切り型ショー、まるで歌謡番組のように1人ずつ役者が自分の台詞を披露する、キッチュな見世物のようにも見えたのだ。だからこそ、役者達は客席に向かった面を切っても、媚びるような視線を客席に投げかけても許される。そうした、グロテスクな、2次元家族バラエティショーのようなものを生み出そうとしていたのであれば、全てを抱え込むフレームとして納得はいく。でも、少なくとも役者人たちはそれに自覚的ではあるまい。
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