2008年7月26日土曜日

岡崎藝術座 三月の5日間

25/07/2008 ソワレ

すっごく楽しかった。どんどんのめりこんで観た。

この芝居の目指す欲望がとてもはっきりしていて、
「面白い芝居がしたい」
「三月の5日間の戯曲は面白い」
「チェルフィッチュは面白い」
そこから外れることは一切目に入らないまま芝居を創ったらこうなったのではないか、とまで思わせた。

(以下、ネタバレ)






面白いことがしたい、という絶対のルールの下では、反則はない。
だから、チェルフィッチュの身振りをなぞって芝居を始めても、それはサル真似ではなくて、
「面白いことをなぞってみたい」ことの自然な発露である。
それは丁度、奥泉光が「書きたいことなど何もない」と言い切って、かつ、読書する中で「なぞりたい」「続きが書きたい」欲求を拾った結果を小説とすること、とか、高橋源一郎が、「好きな小説と遊ぶことから始める」といっているのと同じだ。

でも、なぞってもなぞっても、それは神里雄大の演出と役者の身体性を通して捩じれ、曲がって、異形の物へと逸脱していく。基本3ルールが明確だからこそ、そこに拘った結果としての逸脱にはケレンが無く、ただただ唖然として芝居を追いかけるしかなくなる。

神里氏はアフタートークで、「最初から順を追ってしか芝居を創れない」と言っていたが、それだからこそ、その逸脱のプロセスが素直に見えてきて、かつ、そこには迫力がある。そのエネルギーと、可能性がブワッと開いていく瞬間のエクスタシーに浸った。

小生的に一番印象に残ったのは、みんなで外に出た後、女優が「渋谷の街がいつもと違うみたいだ」ということを階段を上りながら話すシーン。最下段に座った僕が後ろを振り仰ぐと、そこには観客と、役者と、新百合ヶ丘駅前の10階建てくらいの背の高いマンションが見える。
その視界には、金曜日午後9時に、
・ 新百合ヶ丘で誰かの帰りを待っている人(マンションのドアの向こうの幻視)
・ 新百合ヶ丘の駅から家へと向かう人(通行人への勝手なレッテル貼り)
・ 新百合ヶ丘で芝居を観ている人(事実)
・ そこで語られているのは、いつもと違うように(観光しているように=生活と関係ないように)目に入る渋谷(=本来生活と関係の無い街)(セリフ)
・ それを聞いているのは、本来生活の場である(あるいは、通勤の通過点でしかない)新百合ヶ丘駅前まで、芝居を観に来た人々(自分には少なくとも当てはまる)
・ それを駅と家の間にある通勤路で語っている役者
そういうものが全部一遍に見えて、でも、それを繋ぐものは一観客である自分の想像力=妄想と、ふと振り仰いだという偶然の結びつきの細ーい糸でしかなく、でも、

「あぁ、こういうものが掴みたくて、オレは芝居を観に来るんだ」

と思った。

神里氏の言う「場所に拘る」芝居が、そういう宇宙を一瞬でも見せようという意図なのであれば、それはすっごくワークしていて、かつ、僕はそれを確かに感じた、気がしたのである。

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