2008年9月1日月曜日

サンプル 家族の肖像

30/08/2008 ソワレ

いつもながら、ドーンと腹に溜まる芝居。満腹した。

某氏によれば、「辻美奈子フランス語レッスンにあわせてポエムを歌う」のシーンで、僕は「口をあんぐりと四角に開いて」観ていたらしいが、舞台によだれを落とさなくて良かった。
そこに限らず、「羽場さん三角関係へのお説教をあきらめる」とか、「木引いったい何をしたいのか」とか、「古館いんちき(?)ホーミー」とか、 「古屋会心の笑み」とか、「管理人の怒りはいつも理不尽」とか、「村上聡一最後まではじけないぞ」とか、口をあんぐりさせたり、笑いが噴出したりするのを 懸命に抑えなきゃならない局面が、スポラディックに現れては消えて、観終わった印象、「なんとエンターテイニングな2時間」!。ヘリコプターの屋根裏に2 時間幽閉されて覗き観る人々のうごめき。

直前に五反田駅前の歩道橋のふもとを走って消えたドブネズミの姿(おそらく連日の豪雨で下水が溢れ、住まいを失ったのだ)や屋根をたたく雨の音とあわせて、まさに人々がゴゾゴゾとうごめく姿が、全体のうねりや脈絡とは無縁に綴られて行く。

が、この脈絡の欠如が、一方で、「この芝居はどんな芝居ですか?」という問いに対して、「ドーンと来る」とかいうわけのわかんない形容と、個々の事象に即した説明しかできない理由となっている。

脈絡の欠如を「現代人の孤独」とか「絆の欠如」とかいってしまう紋切り型は無しとしても、しかし、この、脈略の欠如した一連のシーンに対して自分 なりの妄想スイッチを入れて外の世界を膨らませていく、あるいは勝手な物語をつないでいく作業にかなりの手間がかかることは間違いなく、結果、観終わって から1日たってもまだなお、うんうんうなっちゃってたりするわけである。
こういう、
① 説明すべき物語は一切排除して、
② かつ、そこから無理矢理何かを紡ごうとする観客にさえも挑戦していく
松井周の態度をどうとるか。松井氏にとっては納得感が高まりつつも(なぜなら、自分の考えていること・感じていることは何かなんて、高々2時間の 『物語』で語れるものではないのだから、突き詰めて考えれば、物語は排除されていって一種当然だ)、観客からは遠ざかっていく、あるいは、摑みどころがな くなっていく。「カロリーの消費」から本作と来て、次に同じ感じでもう3歩進んだら、ついていけなくなる可能性もすこーし感じてはいる。

最後にひとつ難癖つけるとすれば、古舘寛治の「40歳引きこもり老母に養ってもらってる」、まんま「薫の秘話」な設定は、ちと紋切り型な気がした んだけどな。いや、悪くない。悪くないんだけど、できるんだからもう一ひねりお願いしますよ、という気もしたのだけれど。どうでしょうか。

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