2008年9月23日火曜日

東京デスロック 演劇LOVE Castaya

14/09/2008 ソワレ

作・演出のEnrique Castaya 氏のたっての希望で、ネタバレは禁止ということだったのだけれど、9月23日千秋楽につき、もう、そろそろネタバレしても良いでしょう。

<以下、全てネタバレです。再演を期待する方は読まないことをお奨めします。>



僕はてっきり多田淳之介自作・自演か、と思っていたので、出だし、知らない女優さんが出てきたので驚いた。

で、一言も発せず、動きもせずに何分か経過したところで、僕は、
「頼む。このまま、芝居が終わるまで動かず、台詞も発しないでくれ」
と心底願ったのである。そして、その願いどおり、45分間、その状態が続いたのである。

先日見た「朱鷺色卵」の公演でも、開演後何分か二人のパフォーマーが動かなかったのだけれど、そしてそのときも「このまま動かないでくれ」と願ったのだけれど、残念ながらその願いはその後2分ぐらいで打ち砕かれた経験をしていて、小生的には「夢よもう一度」がかなった訳だ。

それにしても、この女優、色々と表情を動かしているけれど、何を考えているのだろう?以下、ほぼ小生が考えた順番に
① 昔の感情を拾って泣いたり笑ったりするんじゃ、まるっきりメソッド演技だろう。まさかそんなことはしてないだろうな。
② もしかしたら、何分何秒後にどんな表情をするか、すべて細かく演出をつけているということも考えられる。多田淳之介だからな。
③ いや、キスフェスの趣旨からいけば、「スペイン」「スイス」ときて、これはベルギーか。ひょっとして、「フランダースの犬」のテレビ放映全シリーズを、最初から最後までトレースして、最後、少年が昇天するところで大泣きして終わるつもりか?
④ いやいや、これは、実は、「朝礼でおしっこを我慢している学級委員の女の子」なのかもしれない。だから時折、客席側、上目遣いに視線をやるのは、あれは、「早く校長先生の講話が終わらないか」と待っている目なのだ。

まじめに舞台を見ているふりして、実は僕が考えていることなんてその程度なのだ。ただし、そうやって、いろんなことを考えるきっかけを与えられていることの喜びは大きい。僕が個人で抱える妄想力なんて微々たるものなんだけど、そこに刺戟を与えて多少なりとも地表から離れようとする、その手助けをしてくれる舞台を、僕は毎回待っているのだ。CASTAYAは、それをしてくれる舞台だった。

だから、この芝居は、実は「一人の観客の想像力」の環の中でとっても閉じている芝居であるといって良い。だから、多田氏も、「これは、Castaya氏に作ってほしいと思うような芝居である」と言っていて、つまり、「作り手としての欲望」よりも「観客としての欲望」に極端に引っ張られた作品であるといえるのではないか。これを面白がる行為、あるいは、面白いだろうと思ってこういうことをやってしまう行為は、怒りを買うと言うよりも、「マスターベーションの共有」と取られてしまう虞はたぶんにあると思う。自分がこの芝居を観て気持ちよかった、その気持ちよさは、何だかマスターベーションの気持ちよさに近いかもしれない、という罪の意識もあるのだ。だって、この芝居を良いと思ったところで、その「良さ」はかなり自閉した、他者と共有できないものである可能性はきわめて高いからである。

舞台に乗っているものがただの「オカズ」じゃ、作り手としてはやるせないはずだが、そこらへん、本当のところはどうなのだろうか?自分にとって「芝居が面白い」とはどういうことなのか、それを改めて色々と考えてしまった。

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