2008年6月15日日曜日

SPAC ハビマ国立劇場・カメリ劇場 アンティゴネ

14/06/2008 マチネ

悲劇とは、「神の掟」と「人の掟」の狭間に投げ込まれ、破滅への道筋を辿らなければならないことに自覚的でありながらなお破滅へと突き進む一人間が、そこで逡巡しつつも立ち止まることが出来ない、その内面のジレンマにこそ存在する、と、このプロダクションを観て学んだ。

この素晴しいプロダクションの中で、悲劇を背負うのはクレオンである。そして、立ち位置を右に左に揺らしながらテーバイの破滅を見届けなければならない退役軍人たち(コロスたち)である。

物語をドライブするのはもちろんアンティゴネである。ただし、彼女が「人の掟」に逆らい「神の掟」を選び取ることは、「悲劇的」ではない。少なく とも彼女はこのプロダクションでは、(最後の最後、感情にとらわれかけるその一瞬を除いては)、ただの感情に流されて聞き耳を持たない人であるかのように 描かれており、クレオンにとっては、自分が悲劇的状況に陥るきっかけを作った困った人であり、テーバイの市民にとっては、自らの運命を方向付ける(だがし かしその運命はどうやら自分達に都合が良くないものになりそうだ)新たなスフィンクスである。
ハイモンもまた、父に妥協を請い、最後には恋人とともに死ぬわけだから、その物語は充分表面上「悲劇的」なのだけれど、恋に生き、恋に死ぬその物語は、「神の掟」と「人の掟」の拮抗の1つの帰結ではあっても、悲劇的ではない。

クレオンの悲劇は、アンティゴネが最初に捕らえられてきたのを発見した際の驚きと戸惑いと、あの、「困ったことになった」という表情に集約されて おり、そこが、小生にとってのこの芝居の「臍」であった。そこにおいてクレオンは、今まさに自分が悲劇的状況に投げ込まれ、運命のレールをくだり始めたこ とを知る。後は運命のみぞ知る。

そのクレオンの運命を横目で見るテーバイの市民達もまた、運命の虜である。市民はアンティゴネに同情しさえすれ、クレオンの掟を進んで破ろうとは しない。その意味で、知恵と歴史がそのジャケットの中に詰め込まれた退役軍人たちは、オーウェルの動物農場に出てくるロバを思い出させる。

クレオンもテーバイの市民達も観客も、「神の掟」に逆らうことが破滅への一本道であることにはとうに気がついている。何となれば、舞台奥の壁の上には英語とヘブライ語で、
"Great Words of Pride Will Be Heavily Punished"
と大書してあるではないか。それに充分自覚的でありながら、なおかつここの意思決定において「人の掟」を選び取らざるを得ないクレオンのジレンマ こそ、すぐれて「アンティゴネ」の現代的テーマなのであり、その一点において、観客はクレオンに、はたまた舞台上の退役軍人たちに、感情移入することが出 来る。

このプロダクションには、2006年の第二次レバノン紛争に触発された部分が大きい、と演出のスニル氏は語った。2006年の最終的な停戦では、 シーア派武装勢力ヒズボラが「勝利宣言」を出す一方で、イスラエル側は当初作戦に失敗し、時の政権が政治的・外交的ダメージを受ける結果となっている。
"Great Words of Pride Will Be Heavily Punished"
イスラエル政府はその傲慢さゆえに作戦に失敗し、ヒズボラに外交的勝利を収めさせてしまったのだろうか。そしてそのことが1つの悲劇としてこのプ ロダクションを触発したのだろうか?いや、そんな表層的な類似だけで、このプロダクションがここまで力強いものとなったとはとても思えない。

もしもソフォクレスの悲劇がイスラエル・レバノン紛争と通底するものを持ち、また、より普遍的な現代への力強いインプリケーションを持つとすれ ば、それは、破滅へと繋がりかねない状況に放り込まれていることに充分自覚的でありながら、なお、いくさを続けるという選択肢を選び取らざるを得ないイス ラエル政府/軍の指導者のジレンマが、そしてその選択肢に必ずしも100%同意できずとも、積極的に「否」という選択肢もありえないイスラエル国民のジレ ンマが、まさに、運命に虜われた状況として、悲劇的だからである。

アンティゴネが「神の掟」を選び取って死に至り、「神の掟」を退けたクレオンとテーバイを滅ぼしたのに対し、現在の中東では、「神」を前面に出す者達が両陣営において破滅へと繋がりかねない選択肢を強く推している状況には、一種の皮肉を感じる。

もちろん、この芝居が戦火の中東でのみ成立する悲劇であると結論付けるのは早計に過ぎる。例えば、静岡の舞台上に載っているのが、勲章をつけた後 期高齢者のコロスたち、老人への手厚い福祉を訴えるアンティゴネと、財政再建・福祉充実のジレンマに喘ぐクレオン・政権与党の姿だ、と考えてみても構わな いだろう。重要なのは、このプロダクションが、「悲劇的であること」を大きな物語から引き離し、個人レベルに落とし込んで見せたこと、それによって観客 は、一個人から始まって、自由な大きな物語を逆に編み上げていく自由を与えられた、ということである。芝居における普遍はとことん個に拘ることから生じる ことの、素晴しい一例だと思う。

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