05/11/2008 ソワレ
80分間の公演を観ながら考えたのは、やはり、鴻上尚史氏の戯曲は余計なものが多くて、説明しなくてもいいことを説明して、面白くもないことをさも面白いように押し付けがちな戯曲なんだ、ということだ。そのまま上演しても、おそらく、何の想像力=妄想力も刺激されず、一愚民として役者の芸を受け入れて終わる、ってことになっちゃうんじゃないかと思うのだ。
この説明過多な戯曲と較べて、多田自身の手になる「3人いる!」が、いかにシンプルな中に想像力を刺激する仕掛けを巡らせた、読む/観るに堪える戯曲であるか、ということが良く分かった。でも、多田氏は、自分の戯曲の方が面白いのをひけらかすためにこの上演を仕組んだのではないのだ。
あえてトランスを「仕掛けつきで」上演することによって、そこから生まれてくる面白いものもあるに違いない、という確信があるんだと思う。つくづく、多田淳之介も、業が深いというか、欲が深いというか、まあ、とんでもない芝居好きである。
<ネタバレあり注意>
そんな戯曲を上演するに当たって、多田淳之介は、桑田佳祐とか、松任谷由美とか、「瞳を閉じて」(って、誰が歌ってるんですか?)とか、くるり、とか、これでもかとばかりに記号な音楽をかけまくるのである。
歌謡曲に乗って説明される紋切り型な台詞やシチュエーションは、まさに、目隠しをされた4人の役者によって演じられることで、「紋切り型が演じられるシチュエーション」という、(ううっ、陳腐な言い方ですまんが)メタな構造を与えられる。
かつ、4人の役者が3人分の台詞を分けあって、どの役の台詞を誰がしゃべるかもシャッフルしてある。要は、「誰が本当に誰なのか」は、分かっても分からなくても良いようになっている。
そうやって、①観客を分かりやすいストーリーで引っ張る必要はないのさ、ということ、②鴻上戯曲にもう1つ上位の枠を嵌めることで、ストーリーで引っ張られない観客に、想像力のきっかけを与えることが出来るのさ、ということ。
この2つを試そうとしているのか。
あ、そうそう、お客がストーリーに寄りかからなくてもよいように、多田氏、開演前にトランスの物語を全て説明してくれるのではある。
でも、やっぱり、自分としては、自分の妄想力を引っ掛けて一段上に跳ぶきっかけは、つかめなかったなぁ。終盤の「サンゾウ」の長ゼリではきっかけが一瞬見えた気がしたが、コンディションもあるためか、我ながら不発。もったいなかった。
で、そういう自分を振り返るにつけても、やっぱり、「3人いる!」の方が面白いんだよなー、なんでわざわざトランスをやるのかなー、なんて、自分の妄想力不足を人のせいにしたがっちゃったりするのである。この戯曲・この演出が「ドンピシャ」に来た人もいるはずで、今度そういう人の話も聞いてみたい。
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