2010年4月25日日曜日

青年団若手自主企画 武蔵小金井四谷怪談 再見

22/04/2010 ソワレ

再見。山内健司「舌切り雀」の日本初演を観に行ったというのが本当の理由なのだけれど、本編でもばっちりやられた。初日よりもさらに切れ味、完成度を増して、というより、この面子に「完成度」なんて言葉は失礼か。

「演劇は、そもそもが、ごっこ遊びなんです」という命題に立ち向かう時に、観客を安全な客席においておくのではなくて、また、観客参加型でも、さらに言うと客いじりでもなくて、でも「はい。じゃあなた、観てる人の役ね」と割り振って、その舞台を観る目(視線)をぐいぐいと舞台の時空に引っ張りこんでいく手管はすごい。

舞台上の演技を「リアル」と感じるためには、観客の中に「リアルに見えるための約束事」があるのが前提なのだけれど、岩井秀人の芝居はその「約束事」が観客によって違うことがよーくわかっていて、そのずれを巧みにこじあけにかかる。

芝居をみなれた観客であれば、ある程度「自分のリアルにとっての約束事ー約束A」と「芝居の約束事-約束B」を行き来しながら、舞台上で起きる出来事に一つ一つ辻褄をつけて、一貫した物語を作り上げるだろう。そのプロセスは、新劇であろうが夢の遊眠社であろうが青年団であろうが、変わることはない。約束Aと約束Bの前提の置き方次第で、芝居が楽しめなかったり楽しめたり、訳が分かったり分からなかったりするのだろう。岩井芝居の「視点の転換」「ズレ」は、約束Aと約束Bを絶えずゆさぶりながら、一つの固定した焦点を舞台上に結ぶ余地を観客に与えないのだ。

もちろん、約束Bを芝居の中で大胆に転換したりメタレベルに翔んだりして、そのことで約束Aをゆすぶってみるような芝居も数多くあるのだけれども、岩井芝居の「視点の転換」には、僕は、彼が「鳥瞰型・神様目線の現代口語演劇」ではなくて、「現代口語一人称芝居」を続けてきた後にしか提示し得ないものを感じる。

岩井秀人が世界の隅っこから世界を観るレンズ。その自分に他人のレンズが焦点を当てていると感じることについてのおそろしく肥大化した自意識。そこから、「その他人を観るさらに他の他人」「岩井と岩井を観る他人が同時に何かを観たときに何が起きるのか?」「岩井と岩井を観る他人が同時に何かを観たときに何かが起きていることについて、さらに他の他人は何かを感づいているのか?」「それらすべてを意識しながら舞台に乗せたら一体何が起きるのか?」
観る度にそういう凄みを感じて、何とも心地よく僕はおののく。

もちろんすべての役者素晴らしいのだけれど、この回は特に石橋亜希子にシビれた。役が切り替わる間の、むにゅうっとした時間の流れ方を完璧に支配。見えないストップウォッチを彼女がカチカチ押して、観客の意識の中の時間すらも止めたり進めたりしていた。

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