2010年8月9日月曜日

東京デスロック 2001年-2010年宇宙の旅

07/08/2010 ソワレ

最近、東京デスロックの公演に出かけるとどうもくつろいで観られるようになってしまって、実はこの変化を僕は非常に歓迎している。前のめりになって眉間に皺を寄せなくてよくて、しかも観るに堪える芝居は、「東京死錠」とか「小劇場」からは予想しにくいかもしれないけれど、ふじみ市に拠点を移して以降のデスロックは、明らかに「おもてなし」「芝居のフレームとしてのホスピタリティ」をすごく意識するようになって、それは、多田淳之介が芝居のあり方について考えを巡らしてきた中で、非常にポジティブな変化だと思うのだ(とはいえ「リア王」の公演で演歌を流したのもそのホスピタリティへの意識の表れだったし、それに対して眉間に皺を寄せた僕は激しく拒否反応を示したのだけれども。それを誤魔化す積もりもないのだけれど)。

今回の「宇宙の旅」は、ふじみ市民会館の中庭の池を使って、「ふじみのデスロック」=「ふじロック」。野外、ワンドリンク付き、オールスタンディング(もちろんペタッと座って観てもOK)、携帯つけっぱなしでOK、写メOKのゆるーい感じ。場内には中年男子「腕組み隊」もいれば浴衣のご婦人もちらほら、おばあちゃんと孫の小学生がまったりと腰を下ろして、まさにこういう芝居は客席後ろから全体が見晴らせるところで観ていたい。

そして、この緩さは(そこまで織り込んで芝居を構成し、創り込む過程が創り手にとっては苦労を伴うものだろうけれど)、とても強い。そして、柔らかな強さの中に、(いわゆる「展示物」としての芝居よりも)想像力へのスイッチを数多く埋め込むことができると実感する。開演後、ステージを据えた池の向こうに見えた只見客の子供たち、イヌを連れたおじさん、近所から聞こえる太鼓、東京音頭、炭坑節、マイクのアナウンス、ステージ近くの瀕死のセミの声、そういうものが、「硬いステージへのスパイス」としてではなく、「柔らかいステージ」に欠かせない構成物として、アクチュアルな瞬間瞬間を輪郭づける、そのことに、今更のように驚く。

過去・現在・未来を意識しながら、舞台に提示されているのは常に「現在の」姿でしかあり得ず、佐藤誠のツイートは「現在の」つぶやきでしかありえない、という「現前性」を大前提としながらも、ラストにかけては未来への想像力に向けて観客をジャンプさせる滑走路が周到に仕掛けられている。その仕掛けはもちろんドラマツルギーとして素晴らしいのだけれど、僕にはそれよりもずっと強く、「想像力へのチャンスとなるべきスイッチ」が、この柔らかなフレームの中に無数に埋め込まれているさまに、深く打たれた。そして、その構造の中で、観客の意識が、舞台上の出来事と客席内の出来事、劇場外の出来事の間を自由気ままに行き来する、その行き来(すなわち、ときとして舞台上から意識が逸れてしまうこと)を許容しながら、緩いフレームの中で観客の集中力を暖かく包み込んでしまうこと。そういう中に、何十人もの人々と一緒に包まれていること、それが何ともいえず、気持ちよかったのだ。

本当に、こういう芝居に触れられる子供たちは幸せだ。媚びない、でも、生真面目に客人をもてなす態度。劇場は、その喜びをシェアする場所なのだ。

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