2010年5月16日日曜日

ロロ 旅、旅旅

07/05/2010 ソワレ

シーンを絵として見せるセンスは高く買う。

が、正直、わからんなー、という感覚が先に立った。40歳を超えたおじさんが「分からんなー」といってしまう芝居なんだから、きっと面白いんだろう(誤解の無いように言うが「つまらんなー」と呟いたわけではない)。新しくて面白いモノはそういうところから出てくるのだろうから。

だから、自分が「わからんなー」と思ったからと言って、全面的に否定するわけではない。一方で、手放しでこの劇団の芝居を誉める向きには、注意深い目を向けながら、ちょっとだけ眉に唾してかかりたい気もする。

家族を満遍なく描いているようでありながら、芝居の骨格は若い2人による「名付け」のプロセスから出来ているように思われる。「名付け」は「見立て」を呼ぶし、名付けられたものの性質もその名前によって変わってくる。すなわち、名付け・名付けられの関係は明らかに権力のありかを規定する。

家族というのは個人にとって一つの「所与の集団」だから、「自分が(年長の)家族を名付ける」ことは通常は起きない。旅に出るというのはその名付けられた集団から抜け出して自分の眼で物事を名付け始める、権力奪取のプロセスである。「名付けの権力を奪取する」ことが目的なら、旅に出るのに外に出る必要はないわけで、まさにそれを若い2人が達成してくれる(もちろん一つ上のメタの階層では、作家の三浦氏が配役の割り振り=名付けにおいて規定の名付けのあり方を使わないことで同じことをしているのだけれど)。

と、そんなことを考えていた。あ、論旨混乱したが、要は、この芝居は、家族を満遍なく描いているようでありながら、「神の目」で鳥瞰して書かれた芝居ではなくて、あくまでも若い2人の「一人称芝居」ということが言いたかったんだ。一人称芝居であれば、その主体にはもっと強いエゴを感じたい。そうでないと、そのエゴのドライブがよく分からないまま劇場を出てきてしまう気がするのだ(それは、一人称芝居の大家である岩井秀人氏との比較でこう言ってます)。

あ!もしかして、若い2人の一人称芝居って、典型的な「ボーイ・ミーツ・ガール」ってこと?え?恋をして世の中の見え方が変わるってこと?
だとしたら、あまりにもベタだけど、芝居のみえ方としては極めて筋が通る!
え?ってことは、オレ、長い間、「恋に落ちて世界の見え方が変わる」体験をしていないってこと?ガーン。そりゃ結婚ウン十年を目前に控えているけれど、でも、そりゃヤバい。だからついつい「分かんないなー」って思っちゃったのか?ヤラレタ、かも!

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