2010年8月12日木曜日

尼崎ロマンポルノ 富嶽三十六系

11/08/2010 ソワレ

「尼崎」を名乗る劇団がアゴラで東京語で芝居をしているのを観ると、途端にアウェー感が漂い、他所行き感が醸し出される。もちろん、東京の劇団が東京で芝居したって、(そしていくら「現代口語演劇」だなんて肩肘張ってみせたって)役者が話す言葉はいつも話している言葉とは違っていて、そもそも「戯曲家」が書いた言葉という制約の中で芝居してるんであって、たまたま東京の劇団にあっては「(おそらく)東京語圏の作家が」書いて、「(おそらく)日常東京語圏で東京語で暮していると思われる役者が」演じていることをアプリオリに前提しても平気になっちゃってる、ってことでしかないんだけど。でも、やっぱり妙な他所行き感を感じてしまったことには変わりない。

だから、という訳ではないけれど、ひょっとしたら、「関西圏の人が小劇場演劇を観る時には、おそらく、東京圏の人が小劇場演劇を観る時とは違う辞書を持ち込んで芝居を観ているのではないか」と思ったのだ。
・東京に住んでる人は、(東京が現代口語演劇圏であることもあってか)、芝居を観る時の辞書として、かなり日常会話で使っている辞書を持ち込んでるんじゃないか。
・関西圏の人は、芝居を観に行く時、見出し語が東京語で出来ている、普段使わない辞書を持ち込んでるんじゃないか。だから、吉本を見るときの辞書とは違うもの。そう、もしかしたら、吉本新喜劇を観る時の辞書は、日常会話の辞書なんじゃないか。
それは、過去ずーっと関西圏の芝居を観てきて、何となく腑に落ちないまま放置してきたことについてちょっとだけ余計に考えてみた、ということなのだが。まぁ、結構乱暴に外れている気もするが、どうか。

芝居のつくり、巧拙を問われれば、「拙」と言う。要らないシーン、足りないシーン、物語進行アイテムの働きの多寡、虚実の糊代の処理の粗さ、あげつらえば沢山あるけれど、やっぱり一番感じたのは、「なんで東京語かな?」ってことだった。そういえば、木ノ下歌舞伎とかKUNIOって、歌舞伎とか翻訳劇やってるから、京都を拠点にしてるのにそれが気になってこなかったな。

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