2010年5月4日火曜日

鰰 淡水魚

30/04/2010

面白い。面白いぞ。面白いじゃねーか!
と同時に、面白いアイディア・演技が定着化される中で、何かが加わることもあれば、鮮度が落ちていくこともある、その過程を「稽古場にいる人間」としてでなく「稽古に居合わせた観客」として目撃すると、正直言って痛ましさすら感じた。創り手にとっては激しく痛みを伴う出し物なのではないか。

16時半から19時半まで公開稽古。まず、これまで出来たものの通し稽古とダメ出し。稽古。新しいシーンづくり。20時前からそれらを受けた本番。

今日の新しいシーンは斉藤美穂、高須賀千江子の「サウナ力士」(このネーミングは小生の勝手ネーミングです)。どこへ行くとも知れないアイディアから、とんでもなく面白い、その瞬間「こいつら、天才なんじゃないか?」とか「面白くて気が狂いそうだ!」と思ってしまうようなモノが生まれてくる。
2回、いったことがあるっ!
ないもにいっなのぬぁ、にゅ~はにのとにぃでにゅ
えれくとか/えれくのりかう/えれくとろ/えれくのりかう/えれくとりかるぱれっどっ!
トモ!
なかまぁ~!
ぶぅあー。

しかし、かつて平田オリザが柄本明さんの天才を「何度演じても初めてのように演技できる」と評したのと逆の意味で、柄本さんではない役者は、何度か演じていると初めてのようには演技できなくなってしまう。「面白い」と演出が認めたエンドプロダクトの「カタチ」に意識がいって、その直前に何を意識していたのか、どこに向かおうとしていたのか、息を吸っていたのか吐いていたのか、そういうことは抜け落ちがちだ(あぁ、岡目八目、客席から見ていると、そのポイントは容易に分かるのに!)。「なぞらないで」と繰り返す神里。が、なぞらないことがそうそう簡単に出来るのならば、世の中に演出家など要らない。

「なぞった上での定着」を避けるために、「鮮度を落とさないために」何をするかに対して、世の演出家は心血を注いできた、いや、注いでいると僕は信じている(もちろん、それを一切せず、カタチの定着だけを要求する演出家も数あまた居るだろうが、そういう方々の芝居は、僕は観ない)。そこを引き出すために何をするかが勝負である。「観客は普通一回こっきりしか観ないんだから、鮮度は関係ないよね」という向きもあろうが、僕は「そういう態度で臨む演技は、観ていて見破れる」とも思っている。

が、定着を極度に嫌う「インプロ・即興」も、平田オリザのように箸の上げ下ろしまで細かく指定して「鮮度を演出する」ことも、全ての芝居・役者に当てはまる万能の処方箋ではない。鮮度を保つのは本当に難しいのだ。逆に、稽古を繰り返す中で新たなものが生まれる芽もあるし、実際に「事故」とは異なる新たな「試み」もサウナ力士2人から生まれたりもした。

生み出す役者、生み出す演出、鮮度を保てない役者、それを食い止められない演出、「本番」でどうしても新たに加わってしまう鮮度(「本番役者」とは本当によく言ったものだ!)、そのプロセスを最初から最後まで目撃してしまう観客。
これら全てをパッケージとして出し物にしてしまった「淡水魚」は、「動け!人間」で白神・神里が試してみたかったことのエッセンス・意図が最も明確に示された「ガチンコメタ演劇」の場だったのではないかとも思う。でも、そういう「(役名)リアル神里君」「(役名)リアル斉藤美穂」みたいな出し方は、本当に、実在神里氏や実在斉藤さんにとって、身を切って見せる痛みを伴ったに違いない。その痛みの要否、観客としての自分が痛まなきゃそれでいいやとは、ちょっと言い難い気もしたのだ。

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