2010年9月1日水曜日

森の奥

21/08/2010 ソワレ

実際色々とすごい芝居だったし、平田の言うとおり「歴史に残る」画期的な好演なのかもしれない。が、僕は「歴史を見通す」とかそういうことには関係なく芝居を楽しもうとする一観客としてこの公演を目にするわけなので、そんな風にして劇場の中で、目の前で展開した出来事について、観たように書くしかない。

「森の奥」は、一連の「ネアンデルタール作戦の研究室」ものの最新作として、平田らしい、完成度の高い戯曲であった(もともとはベルギーでの公演を前提に書いたもの)し、今回のロボット版もクオリティは高い。そして、ロボット2体はといえば、役者としてはまだまだというのが第一印象。そしてそして、それらの「まだまだ」な役者と同じ舞台に立つ青年団の役者達に凄みを感じた。

ぐっと自分の個人的なところに引き寄せて言うと、自分が役者としてダメだったところが、ロボット役者でもダメだという風にデフォルメされて見えるような気がしてしまって、ちょっとへこむとともに、「良い役者」が、自分の台詞・段取りだけでなく、自分のおかれた状況に対してどれほどビビッドに反応しているかがくっきりと浮かび上がった、ということだと思う。

アフタートークで平田自身が語っていたように、ロボット役者が人間の役者と少なくとも対等に伍して演技できるためにインプットするべき細かな演出は、あまりに大量である。時間と金さえつけば(そして、起きるべくして起きる技術的ブレークスルーを経たならば)そうした大量の演出をつけることは可能だろうけれど、だとしてもそれが「ロボットが人間を超えた」と言い切る理由となるかどうかは分からない(新たな不足が明らかになるだけかもしれない)。よしんば、「周囲の役者が完全にタイミングを捉えて演技し、ロボットにそれを踏まえて演技をさせれば、『周囲への反応』も同期できるはずだ」ということも考えられなくはないけれども、やはり人間の役者の「反応」ははるかに微妙で豊かなのではないかという気はしている。

後半、wakamaruが客席に向かって真っ直ぐに移動してくる場面、つい、wakamaruと「眼」が合った気がして、そこから視線を離すことが出来なくなってしまったのだけれど、そのときの「ぞぞぞ」とくる感じは忘れられない。そして、そんなロボットと会話を交わす演技をしている時の、青年団の役者達の(特に大竹直の)演技のきめの細かさ、解像度の高さ、柔らかさと豊かさとに、打たれた。

あの「ぞぞぞ」感は、今後のロボット製作技術の、あるいは僕らの認識の仕方の、変化につれて、どのように変わっていくのだろうか?wakamaruの演技は、「不気味の谷」にどれくらい近いのだろうか?

今回wakamaruにインプットされた情報、wakamaruがアウトプットした演技は有限だ。でも、そこから広がる観客の妄想と想像は無限である。少なくとも人間がロボットに取って代わられるまでに、まだまだできることはあるという極めて楽観的な前提を下敷きにしてこそではあるけれども、「未来」を感じた気は確かにしたのだ。

0 件のコメント: