2010年5月17日月曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第3回

08/05/2010

第3回は、松井周・岩井秀人・多田淳之介の3人の劇作家・演出家をゲストに招いたシンポジウム「好きな劇評、困った劇評」。場面場面でもちろん見せ場があって、司会進行の佐々木敦さんも含め大変エンターテイニングな午後だったのだけれど、総じて感じたのは、やはり創り手のお三方にとって「劇評」は「誉める・けなす(佐々木敦流に言えば「価値判断」)」の情報を伝える役割以上のインパクトを創り手に与えていないんだなぁ、ということ。多田氏も言っていたけれど、まだまだ「作品」と「批評」の間にインタラクションが生まれるような緊張感がないのだろう。劇評を書く側(創り手が劇評を書く場合は除く)から観てどうなのかは分からないけれど、少なくとも創り手からみるとまだまだ「相手にせず」みたいな余裕もあったような。

1980年代には「初日通信」があって、そこには「誉める」にせよ「けなす」にせよ、一定の緊張感があったのを覚えている。あの緊張感は、残念ながら、今の新聞劇評やコリッチには見当たらない気がする。

もちろん、劇評がもたらす緊張感と言うのは、「誉められると客が増えたりする」「けなされると客足が鈍ったりする」というのと、いくら目を背けたとしても一定量つながっているので、一種の権力関係を伴う。でも、この匿名でない権力関係が創り手と批評との間の緊張感を担保するのであれば、それは満更悪いことでもないのではないか。そんなことも考えた。

といったところで、一体誰がその権力関係を引き受けるのか?どこまでのリテラシーをアンケート<レビュー<批評のスペクトラムの中で、誰にどれだけ要求すべきなのか?何をもって「プロパー」な批評家と呼ぶのか?プロパーでなければ権力関係に入り込むべきではないのか?考えは尽きない。

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