01/05/2010 ソワレ
柴幸男作・演出のENBUゼミ劇場公演は少年王者舘リスペクト三昧、でも「テーマ」はあくまで柴流、ワイルダーテイストものぞかせながらの45分。
客席には「シバ・マニア」層はもちろん、出演者のお友達、若い演劇関係者、はては親類縁者なのか小学生も少なくとも4、5人はいて、満員御礼。役者陣、演出・客席からの期待にきっちり応えて見応えあり。
が、やはりここまで天野天街リスペクトできたのだから、天野芝居と比較してしまおう。
誤解を恐れず乱暴にくくると「柴幸男は、真っ当な人である」「天野天街は、真っ当でない人である(と疑われる)」。少なくとも天野演出の芝居を観る限り、そこから染み出すものには「このままではとてつもなく真っ当でないところに連れて行かれてしまうのではないか」という恐ろしさがある。それは、天野氏が(僕は天野氏とお友達でもないしお話したこともないから何ともいえないが)、「もとから真っ当でない」もしくは「真っ当な人なんだけれど、奥底にある真っ当でないものが芝居に染み出してきている」かのどちらか、ということである。
一方で、柴幸男の芝居には「この芝居は真っ当なところに着地するに違いない」という安心感があるのだ。
先に触れた小学生。芝居が終わっておじいちゃん曰く「どんな話だか分かったかい?」「分かったよ。お姉ちゃんが電車で東京にでてきて、演劇を何年かして、それからまた電車で田舎に帰るって話でしょ?」「いやいや、そうじゃねえ、それだけじゃねぇんだよ。もっとね、ふっかいはなしなんだよ」。柴氏の芝居は、そういう話ができる芝居である。これが天野氏の芝居だったら、小学生は途中で怖くて泣くわ、おじいちゃんは終演後腕組みして頭傾げるわ、大変なことになっていたと想像されるのだ。
「真っ当なはなし」「きれいにおさまるはなし」が良くないというのでは、決してない。アクセントをつけようとしてこれみよがしに「毒」を盛りつけして「(感動をありがとう!ならぬ)汚いものをありがとう!」になってしまう芝居、たくさん知っている。
でも、やっぱり、芝居の「手法」(複数役者せりふユニゾン、言葉のずらし、シーンの巻き戻し繰り返し、舞台奥投影の使い方、登場人物=作者の自我の分身の術)がもっていく/もっていくのではないかと期待される/怖くなってしまう場所と、実際に柴氏が持っていこうとしている場所が微妙にずれている気もする。いろいろなイメージが観客を連れていく先について、もっと不安を与えてしまってもかまわないのではないかと思うのだ。だって、しっかり観客がついてこれるギリギリの線であれだけ引っ張り回せるのだから。
言い方を変えると、もっともっと、柴氏がなかなか表に出そうとしない「破れ」もしくは「闇」みたいなものを覗いてしまいかねないところ、あるいは、観客自身が自分ではなかなかのぞけない自分の「破れ」「闇」を映し出しているのではないかと疑われるようなもの、それを柴幸男の芝居で観せてもらえたらなぁ、と思ったりもするのだ。
ともあれ、すっごく力のある芝居だったことは間違いない。前述のおじいさんも、つくづく当パンみながら「・・・柴、俊夫かぁ・・・」。それじゃあシルバー仮面だって!
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