2010年5月31日月曜日

マームとジプシー しゃぼんのころ

30/05/2010 マチネ

やはりマームとジプシーはとても上手なカンパニーだった。戯曲のディテールも、構成も、役者の所作も、アンサンブルも、小屋の使い方も、すべて上手だった。しかし「僕を」どこにも連れて行ってくれなかった。いや、人のせいにしてはいけない。「僕は」この芝居のどこにも、取り付くシマを見つけることが出来なかった。遠い世界で始まって、遠いまま終わってしまった。だから、これから先書くことは、自分の想像力に対する言い訳・アリバイです。

これだけ上手に、微に入り細に入り、繰り返して、微小なシーンを畳み掛けられると、年取った僕の想像力はただただ「自分が観たこともなく、娘が高校生になったからは微塵の興味も抱かなくなった女子中学生のこと」に対してスイッチが入るタイミングを見失い続ける。ひょっとすると創り手は「ハナから入ってこれない人」の想像力のスイッチを入れさせようという意図を持っていないのかもしれない。それくらいに、この芝居の絨毯は目が細かく、ぎゅうっと詰めて編んである。一つの世界がこれだけぎゅうっと提示されてしまうと、そこに入れる・入れないは「好悪」「ハマるかハマらないか」に左右されてしまいそうだ。

他にも「一つの世界をぎゅうっと提示する芝居」はある。青年団、ペニノ等々。ただし、それらの芝居は、ずるぅく「余地」を残して観客にぶつけられていると思う。青年団のソウル市民を観て「本当に善い人々のお話なんですねぇ」という感想を言った方がいると聞くが、そういうふうに「誤読」を許してしまう芝居。それなら大丈夫。一方で、自分の世界で突っ走る芝居もある。唐組、少年王者舘。実はそういう芝居も僕は好き。

なんで唐さんや天野さんの世界には付き合えるのに、藤田さんの世界とは折り合いがつけられないのか?

うーん。それは、マームとジプシーの芝居があたかも「共有できるもの」として提示されているから、もしくは、観客としてそれを期待してしまっているからではないか、と思う。もとから「あっち側の世界」「いっちゃった世界」であれば、そこに距離が生まれ、想像力の働くスペースが出来る。逆に、「共有できる、よね?」と迫られた瞬間、こちらの気持ちがスルリと逃げる。端正に作りこまれていればいるほど。そういうことがおきたんじゃないかという気がしてきた。

だから、マームとジプシーの世界を「共有できた」と思えた人はとても幸せです。きっと。ガチンコで話に入っても大丈夫なくらいスキがなく出来た芝居だから。そこで引いた僕はあからさまに不幸せです。これからこの劇団が、幸せな観客と不幸せな観客を創りながら前に進むのか、それとももちっとずるく立ち回って間口を広げていくのか、誰かそっと教えてください。

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