23/09/2010 マチネ
蜷川演出の芝居を観るのは1987年のテンペスト(確か日生劇場)以来で、まぁ、それ以来「蜷川さんの芝居は観てもしょうがない」とずーっと思っていたのだけれど、今回の「聖地」を観て、そこまでムキになって観ないと決めることもなかったかもしれない、と思ったのである。
松井周の戯曲が、確かなカタチをとって舞台の上に載り、しかも、戯曲の行間にあったふくよかさ、豊かさが、たっぷりと劇場の中を漂っていた。素晴しい戯曲だし、素晴しい演出だし、しかも、役者陣も素晴しかった。プロとして芸暦を重ねてきたわけではない役者達にここまで素晴しい芝居をさせるのだから、蜷川演出、素晴しいと言わざるを得ない。
「聖地」が「擬似集団もしくは擬似家族・擬似パラダイス」「リビドーのうごめき」「倒錯したフェティシズム」「漸近し、でも交わることなくすれ違う物語たち」を描く様は、それほど従来の松井戯曲からかけ離れたものではない。語り手をかます構造もそうだし、登場人物たちが(従って観客たちも)物語に「ノる・ノラない」に賭ける中で時間軸が進む構造もそうだろう。
しかし、松井演出の諸作品と比べて、この「聖地」は、「突きつける」よりも「膨らませ、魅せる」ことに重心を置いた点で異なっていたのではないかと思う。松井演出作品では、「戯曲を書く松井周」にスタッフ・役者が加わったうねりの中で、「演出家松井周」は「サンプルの中の一つの要素」という(ある程度控えめな)位置取りをしているように思われる一方で、「演出家蜷川幸雄」の主張は際立って表に露出する。それが邪魔だといっているのではない。その違いによって、劇の入れ子構造の中に、
サンプル: 劇中人物 ⇒ (語り手)⇒「松井周+サンプル」 ⇒ 観客を含む劇場 ⇒ 外の世界
聖地: 劇中人物 ⇒ 語り手 ⇒ 蜷川幸雄 ⇒ 「さいたまゴールドシアター」 ⇒ 観客を含む劇場 ⇒ 外の世界
と、一つ階層が加わって、ことこの作品ではその構造の変化が「豊かさ・雄弁さ」に繋がっているように感じられた。そして、そうした構造を要求する蜷川幸雄のスーパーエゴに、しっかりと松井周の戯曲が耐えられることにも、ポジティブな意味で驚いた。
前半の遠山陽一さんと木下小春の「フリのシンクロ」のシーンは途方も無く美しく、既に涙止まらず。後半になってそのモンスターぶりが羽場睦子さんをも凌駕しかねないとさえ思われた重本恵津子さん(84歳!)、小宮山・藤川(宅嶋・吉久のお二方)のからみの後のきまずさ。そして絵描きの益田ひろ子さんとヘルパー手打隆盛の二人の心の交歓も、これでもかとばかりに美しい。これだけのものが3時間半に詰め込まれて、しかもそれを余さず取り出し、加えて演出家のスーパーエゴが噴出しながらラストへと突き進む中での新聞紙の堆積、ヘリコプターの出現による遠近の錯乱、これにどうやって整理をつければよいのか。目の当たりにした世界の余りの豊かさに、未だ茫然としている、というのが正直なところなのだ。
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