24/04/2010 ソワレ
多田淳之介氏のキラリ☆ふじみ芸術監督就任第一作。東京デスロックで上演した"LOVE"を下敷きに再構成、韓国人俳優4人と日本人俳優4人の混成部隊で。
初演時の、ややもすると観客を振り落とすような、受け付けないような、目つきの鋭そうな空気が、あたたかく観客席に手を差し伸べてくるような包容力に姿を変えていた。同じモチーフに基づきながら、また、突きつけるもののインパクトをそのままに、洗練と成熟を感じた。
冒頭、役者がカラフルな衣装にメガネ、同じくカラフルなスーツケースにグッズを満載して登場したのに、まず驚く。
LOVEの一連のシリーズでは、冒頭出てくる役者に「出来るだけ記号を背負わないように」させて、とはいっても役者の個人史は役者の身体にきっちり予め刻まれているのだから、そこまで消し去って舞台に載せるわけはいかない、そのギャップにどう折り合いをつけていくか、どうやって「今、ここにある身体」に集中するか、がミソだったと思う。
それが、今回はいきなり冒頭から記号をまとった役者達が舞台に現われる。メガネ、スーツケース、枕、水、鍋、着替え、本などなど。お、やっぱり多国籍軍ともなると、あらかじめ共通の「裸の身体」で舞台に立ってくれとはおいそれと言えないわけですか?と思う。
その後、一旦は役者達はその記号を落としてしまうのだけれど、後半再度記号どもを身に纏い始める。冒頭着ていた記号と違うものを身に着けて。言葉はなく、せわしなく舞台上を歩き回る。ぶつかる、袖が触れ合う、すれ違う。でもそこにもやはり言葉のコミュニケーションは生じない。そこにはこれまでの「言葉のコミュニケーションでもどこにも連れて行ってもらえないこと」への苛立ち、言葉以前のコミュニケーションへの憧憬のようなものは無くなっていて、「記号を纏った者同士のコミュニケーション不在へのあきらめ」があるように思われる。それは、とてもさびしい現状肯定のようにも受け取れる。初演時、少なくとも夏目慎也はどこへとも知れずはしごを昇って進んでいった。今回、役者達はお互いに言葉を交わすことなく、各自の記号を纏って退場する。ラストの視線の交わりになにがしかの希望の芽はあるのか...
大きな舞台で演じられるLOVEは、空間が大きい分だけ包容力を増したように思われた。狭い場所で観るLOVEは、若干intimidatingな感じがして、息が詰まることもある。「大きな空間でも大丈夫じゃん」という自信と余裕は、この3年間のLOVEの公演の成果だと思う。「小劇場演劇」ではなくて、れっきとした「舞台表現」なんだと思い知った。
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