2010年4月3日土曜日

boku-makuhari スリープ・インサイダー

29/03/2010 ソワレ

初見。2時間10分たっぷり重たい芝居。
観ていて途中でどうにも脈絡が追えなくなり、一体どうしてしまったのかと思っていたが、終演後当日パンフ読んだら、「提示される」物語の脈絡など最初から無かったと分かった。最初に当パンきちんと読んでおけばよかった...創り手が自分の物語を押し付けようとせず、「物語は観客の想像力/妄想が紡ぐもの」ことを前提としてくれる芝居は正直僕の好みだし、そうした余地のない押し付け芝居に腹を立てたりもするのだけれど、それでもしかしこの芝居の中で何かしらの筋・脈絡を読み取ろうとしてしまった自分の未熟さよ。

この芝居の一見した「脈絡のなさ」には、しかし、イメージに頼る(観客に丸投げする)なげやりさよりも、むしろ、丁寧な周到さを感じた。つまり、最初から引いて観なくとも、個別に脱線するためのスイッチ・引込み線が仕掛けてある感じ。戯曲の色々なところに「観客の皆さんはどこからどう脱線していただいても構わないのですよ。例えば、ここ」といった誘い水。誘い水ではあるのだけれど、それに乗って脱線する、あるいは脈絡のない迷路をうろうろすることは、決して観ている側にとっても楽なことではない。というのも(少なくとも当パンの挨拶をちゃんと読んでいない観客は)「いつ物語の本筋が立ち現れるかわからない」という考えからなかなか逃れられないからである。で、疲れてしまう。

そしてこの疲れは、観客だけでなく役者・作者・演出も共有しているに違いないと感じたのだ。その点が、同様に観客が脈絡をとらえにくい芝居をする松井周との違いだと思う。サンプルの芝居も「脈絡がつかみにくい」けれど、少なくとも松井周は「自分の中では辻褄が完璧に合っている」と言ってしまう。一方で岩崎裕司は、自らにとって整合性のとれる辻褄からも、あらゆる機会を捉えて逃れていこうとしているように思える。それは、きっと、しんどいことだろう。しんどいけれど、充分挑むに値する行為。

役者もしんどい演技を強いられているに違いないのだけれど、そこでほぼ出ずっぱりなのが、サンプルにも出演する、かつ青年団所属の、奥田洋平であることは注目に値すると思う。「物語をはぎ取ったしんどい演技をしても、それはやはり十分に観ていて面白いこと」という問題意識は、実は、現代口語演劇の原初の問題意識ではないかと、僕は考えている。現代口語演劇の演技は「日常を演じる、だらしなくて楽でつまらない演技」なのではなくて、実は一つ一つの動きが「物語に支えられていない」分、しんどくて過激な作業なんだということを、奥田の演技は示しているようにも思われたのだ。

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