2010年7月11日日曜日

Beseto演劇祭 覇王歌行

10/07/2010 マチネ

何よりも驚いたのは、舞台上で提示される情報の発信者たる創り手と、情報の受けてであるところの観客の間で共有されていると想定される「辞書」が、日本・中国の間でこんなにも違うのか、ということ。もちろん日本の中にいても、新劇と宝塚と現代口語演劇とではかなり違っているから、国をまたげばもっと違うというのはさほど不思議ではないのかもしれないが。

まず、項羽の役の俳優よりも、ワキで色んな役を演じ分けてみせた長氏の手足の動きが、そうした「辞書」から拾ってきたボキャブラリーのオンパレードの趣があって、いつまでも飽きなかった。これは、微妙な使い分けまで含めて、どれだけ見ていても面白い。

音楽。最初は中国の音楽風に古琴の音を響かせながら、また、虞の歌も「あぁー、これが、虞と項羽の時代の中国の美人の節回しということなのねー」と思いながら聞けたりするのだが、戦いのシーンになってあからさまにブラスセクションが入ったりすると、うーん、なんでしょね、これ、中国ではそこら辺の統一感は問われないんでしょうか、それとも海外巡業だからこれくらいのボキャブラリーの中で回さないと厳しいんでしょうか、みたいなことを考えてしまう。シーンが進むにつれて喜太郎っぽいシンセの音も聞こえてくるし、この捩れ感は、必ずしも「滑稽」ではなくて、本当に色々考えてしまったのだ。

舞台上に乗っているプラスティックの陳列ケースは、中に兜や刀剣が入っていて博物館っぽい。あたかも、それら陳列品の中から項羽が抜け出してきて自分の生涯の真相を物語る、という趣向なのだけれど、その趣向があるからこそ、逆に、上記音楽の趣味とも合わせて、なんだか、「中国四千年展」の兵馬俑(レプリカ)展示の特別ショー、みたいな趣向に見えてきて、対処に困る。

正直なところ、役者本当に良く訓練されていて、達者で、でも、なんだか、観客のレベルを値踏みしたりしてないかな、といぶかってしまったのだ。それは、創り手と異なる「辞書」を持っている人たちを前にして上演する時に、妙な手心を加えるというか、「こういう語彙を使えばある程度最大公約数で乗ってくるだろう」とか、そういうことだ。それは、本当のところ、どれくらい必要なのだろうか? 必要ないと言い切るのはとても乱暴だと自覚しつつも、やっぱりこの疑問は生じざるを得ない。

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