24/07/2010 ソワレ
ここまで、「なにげにすげーこと」をされると、なんともいいがたいものがある。
受けたショックの大きさから言うと、1月に神奈川県民ホールで観たリーディングの方が実は大きかったのだけれど、しかしながら、それはおそらく、そのときに初めてワイルダーの戯曲に触れ、また、そのモダンさに驚いたことが大きく作用していて、このとき以来ワイルダーの戯曲いくつか読んだ今となってはその驚きを同じくらい味わうことは出来ないということでしかない。
1月にもこんなことを書いていて、
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役者の身体は実時間に正直に動かざるを得ないから、そこはきっかり40分。観客にも、実時間を過ごしてもらいながら、虚構の時間90年も観てもらえる(かもしれないし、ダメかもしれない)。そのギャップに茫然とするのではなく、物語に身を投げてもらうでもなく、それを味わってもらうこと・・・
身体は実時間に正直で、テクストは虚構の時間を流すことに向けてウソをついてくれる、あるいは、ウソの裏打ちをしてくれる、となると、やっぱり役者がどれくらい自分の身体とテクストとの間に距離をとれるか、ということか・・・な?
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その考えは今でも変わらない(今回は70分だけれど)。この、実時間とテクストの時間のギャップを、どうやってメソディカルに埋めていくのかというところに、演出・役者の技量の大きさ(上手い・下手というよりも、視野の広さ、キャパシティの大きさ)を感じる。
その技量が、STスポットという、ぎゅっと小さな空間で凝縮して示されるから、神奈川県民ホールでは割と未処理のまま残した「のりしろ」はよりきちんと処理され、結果として「よりさりげなく、すごいことを」という運びになった。
武谷氏の"ウェインライト氏"の存在感は、構成のいじり方ともあいまってかなり「意味のついた」感じに演出されている。一族の歴史からはみ出して、ハードウェアとしての「家」が「誰に」憑くのか、という過程がより前面にせり出してくる。こういう見え方はワイルダーも想定はしていなかったでしょう、と思ったりもして面白い。
これだけ素晴しい上演なのだから、2つくらい不満を言っても良いだろう。これら不満が、上演の価値をいささかも貶めることはないだろうから:
① 出はけ。県民ホールと比べたときに、あまりにも出はけまでの距離が近いこと。これは、メタフォリカルには、「死との距離が近い」というふうに解釈することも出来るけれど、でも、やっぱり死に向かっての滞空時間があまりにも短いのは、芝居として「見せ場」あるいは、もっと丁寧に味わいたい部分を切り捨ててしまっている気がしてもったいない。
② 冒頭の「タクシード・ジャンクション」は第二次世界大戦直前の曲。ヒットしたのは1939年グレン・ミラーオーケストラなので、冒頭のこの曲は、観客の時間軸を混乱させる。まぁ、誤意訳だし、登場人物もいじってあるので、こんな些細なことで混乱してはいけないのかもしれないが。じゃあ、何を歌うのか?やっぱり賛美歌なんだろうな。当時の流行の、とか。
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