12/03/2010 ソワレ
2年ぶりのみやざき◎まあるい劇場。東京に来るのを本当に楽しみにしていたのだが、その期待を一つも裏切ることなく、素晴らしい舞台。
和田祥吾は2年前と同様、舞台上の空気をがっちり支配して隅々にまで睨みを利かせ、「生まれてきた人」たちが劇場の空間を切り裂く様はジミヘンのギターの様に暴力的で、感情の真皮を突く。
前回の「隣の町」が、生者の町と死者の町を併置して、お互いの町の住人たちが「出会う」場を描いていたのに対し、今回は「取り壊しを控えた廃棄されたプラネタリウム」という場を用意し、出会いの場に歴史の厚みが加わった。
兄ー弟、老いた夫ー妻、元夫ー元妻、傘売りー友人達、というように、1対1の対話を基本単位にして、それらを地層のように積み重ねながら、そこに描かれるのは「物語」ではなく、「世界」である。混沌とし、脈絡を欠き、残酷で、取り戻しようもなく、辛いからといって全否定もできないやっかいなもの。
これは誰の話なのか。誰の視点なのか?管理人の夢なのか?老いた夫の妄想が作った世界なのか。若い男女は老いた男女の過去の姿なのか?取り戻したい歴史なのか?弟は本当に兄を待っているのか?それは「実在する」兄なのか「実在した(そして今は実在しない)」兄なのか?本当に彼らは兄弟なのか?兄の妄想なのか?弟の妄想なのか?人々はどこからきたのか?
いや、実はこれらの人々の組み合わせに「物語上の必然」はそもそもないのだろう。そういう、どうにも把握できない「やっかいな」ものとしてこの世界は提示される。
そして、そのやっかいな世界の縦軸を担ってこの舞台の脊椎となるのが「生まれてきた人」たち。もがき、あがき、手足をバタバタさせ、やがて立ち、叫び、互いに触れ、去る。そこに進化はあるのか?進歩はあるのか?相互理解はあるのか?そんなことはパフォーマーも作・演も知りはしないだろう。あるのは「生まれてきて」「歩いて去っていった」ということだけだ。彼女たちが歩み去ったその徴は、もはや観客の記憶の中にしかなく、個人の歴史の地層の薄い層の中に閉じこめられる。でも「どこかに向かって行った」ことだけは、確かなこととして覚えていたくなる。
そうやって観ていたら、ふと、この対話と時間の混沌とした積み重ねは「昏睡」でも試みられていたのだと気がついた。迂闊だった。このやっかいさを、「昏睡」ではたった2人の役者によって担おうとしていたのか。なんたる蛮行、なんと遠い道のり。是非「昏睡」の再演、お願いします。
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