16/09/2010 ソワレ
今回のサンブルの公演についてもまた、上演台本の英訳と字幕製作にかかわらせていただき、稽古の過程やテクストの改変の過程も観た上で、本番公演に臨んだ。そうするとやっぱり「初めて観るように観る」ことはできなくて、公演を観た印象もそういうものにならざるを得ない。
と前置きした上で何を思ったかというと、やはり小屋入りしてからぐわっと芝居が変わる様に驚いた、というのが第一印象。芝居そのものが、(松井周の言葉を借りると)「場」に「物語」を貼り付けていくプロセスなので、アトリエ・ヘリコプターの場の輪郭を得た途端に芝居が水を得たように立ちあがっていく感覚。
冒頭、役者がわらわらと出てきて(一部は「アトリエ・ヘリコプターのドアを開けて出てきて」)「位置につく」ところで、芝居そのもののフレームが「ヘリコプターで役者が演じるもの」というように嵌められる。チェルフィッチュのようでもあり、中野成樹+フランケンズのようでもある。「真似してる」というのではなくて、要は、「劇場という場が、観客の前に役者が出てきてうそんこの世界を演じるんですよ」と宣言することが重要だ、そしてできればそれを観客との共犯関係のとっかかりとしておくことが重要だ、ということである。
だから、松井周が「物語を貼り付ける」という時、それは2つの意味を持っていて、
a.役者がヘリコプターの舞台上に物語を貼り付けること
b.劇中の人物が「正の国」(あるいはアパートの一室)に物語を貼り付けること
のどちらか、あるいはどちらでもあり得る。芝居の展開を観ながら、その2つの次元を自由に行き来することが観客に許されているのが心地よい。
で、それら2つの世界の蝶番のように機能していたのが、兵藤公美だったと思うのだ。それは単に「隣人」という「国外の人」であるからというのではなくて、兵藤一人だけが、ヘリコプターの舞台上手観客側の「ヘリコプター備え付けのドア」から舞台に出てきて、舞台前面で寝そべってしまうという荒業を許されているからである。
「一体兵藤公美は(劇中の「隣人」は)どこにいるのか?」
この問いについてもっとも真剣に考えなければならない相手が、この芝居では兵藤公美であり、そこが彼女ならでは、と思わせる見どころだったと思う。
(テクストが編集されていく過程で、前半の彼女のセリフがどんどん削られていき、彼女が劇中の物語のコアから周縁部へ=観客=ヘリコプターの場の方へとポジションを変えていくのが何ともスリリングだったのだが、それが劇場に入ってこのような形で観客と舞台を繋ぐとは!)
物語を一冊に綴じずに、(ぺたぺたと舞台に貼り付けたまま)割とぶっきらぼうに観客に提示して見せる松井周十サンプルのやり方は、彼の創造意欲を駆り立てるものとしてリビドーが前面に出がちなこととも合わせ、時として「訳分かんない」という印象に繋がっていたと思う。それが、今年初めの「ハコブネ」で、観客を取り込んでいくフレームやプロセスの柔らかさを感じさせるや否や、今回の「自慢の息子」では、柔らかく処理する手法としてだけでなく、攻守兼ね備えた手法として芝居を立ち上げていて、松井芝居が「離陸した」印象を受けた。
たまたま口口の三浦・板橋両氏が観に来ていたからでは必ずしもないとは思うのだけれど、5月に観た「旅、旅旅」のことを思い出した。「旅」は、冒頭に一つに綴じられたサザエさんという「物語の束」から、貼り付けられた物語が次々に剥がれ落ちつつ名づけ直されていく過程についての芝居だったと思う。「息子」は、ともすれば剥がれ落ちそうになる物語をめいめい勝手に貼り付けていく、そして最後にグロテスクな「物語もどき」が、続<とも続かないともなく提示される、という、ちょうど「旅」逆コースをたどるような展開で、そこが「旅」の「抜け出して発散していく感じ」と、「息子」の「どうやっても危うい感じ」の違いに繋がっているのかな、とも思った次第。
芝居についてはこんな感じ。もう一度、英語字幕の回にもお邪魔するが、その時にはあんまり冷静に観ていられないだろう。
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