2010年4月1日木曜日

ままごと スイングバイ再見

28/03/2010 マチネ

千穐楽。
この芝居の出来の良さについてはもういろんな人が書いているだろうから、色んなことを誉めるのはやめます。一つだけ言うなら、能嶋瑞穂さんは今回もほんっとにきれいだった。こはり氏との出会いのインタビューのシーン、分かっていてもみとれて、涙出た。

芝居の話はそれくらいにして、学生の頃ネパールに簡易水道を作りにいった友人のことを書く。ネパールから帰ってきて、彼曰く「ネパールの人は、淡々と人生を受け入れる。三食同じものを食べ、働き、食べ、寝、働き、食べ、寝る。娯楽は乏しい。ない。不平は言わない。淡々と生きる。」

蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまった僕たちは、最早そのようにして暮らすことができないという点で、不幸である。その不幸を背負って生きる以上、また、「文化」とか「宗教」といった「贅沢品」も身に纏って生きるほかないじゃないか、そんなことを考えたことを覚えている。今でもそう思う。

この、スイングバイという芝居は、ネパールで友人が見てきた「淡々とした暮らし」への、一種の応援歌である。それは良い。僕がついつい考えちゃったのは、「芝居」という贅沢に身を浸しながら淡々とした暮らしにアプローチせざるを得ないせつなさについて。

柴氏がなんかのアフタートークで「芝居をして、きちんと生活できるようになることが目標だ」みたいなことを言っていたのを覚えている。彼もまた、「芝居」という人類の文明の最高の贅沢の一つを仕事としながら、それが「淡々とした暮らし」にどう比肩しうるかを試している、あるいは、後ろめたさを引きずりつつ進んでいる、という気がする。

「私の仕事は、お芝居をすることです」
「私の仕事は、ままごとをすることです」
一連の台詞の中に、こういう言葉がなかったことに、若干驚きというか、がっかり感はあった。

かろうじて、「私の仕事は、人を笑わせることです」がそれか。

あるいは、わが社において、「社内広報」という、言い方によっては、「無くても構わないもの」の極地にあるような部署を採り上げたのもそういうことかもしれない。柴氏にすれば、演劇は「わが社」の社内広報のようなものであり、無くても構わないし、世直しの道具でもないけれど、でもやっぱり、おばちゃんのお掃除と同じくらい、一生懸命取り組むのに不足は無い仕事ということなのだろうか。

そう。だからこそ、だ。あの、一連の台詞の中で採り上げられる職業に、貴賎はないのじゃないか?と、どうしても思ってしまうんだ。
「私の仕事は、おカネを貸すことです」
「私の仕事は、パワーポイントの体裁を仕上げることです」
「私の仕事は、天下り先を確保することです」
価値観と関係なく、今日も様々な人が、様々な仕事をしている。メーテルリンクの青い鳥で未だ生まれぬ赤ん坊が「ぼくは疫病とともに生まれ、すぐに死ぬのだ」と言ってのける、そういうところまで呑み込んだ世界まで、僕は実は柴氏に期待しているのではないかとも思うのだ。

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