28/08/2010
それが、柴幸男作・演出でtoiがアゴラで上演した「あゆみ」であるならば、畑澤聖吾さんが全治全霊を傾けて脚色した「あゆみ」であるのなら、それは何としてでも観ねばなるまい。それは、優秀賞だろうが佳作だろうが落選であろうが、何が何でも観ねばなるまい。そういうことです。そして、その期待に違わぬ素晴らしい舞台だった。いや、期待を遥かに超えて、素晴らしい舞台だった。
開幕。幕が一切下りておらず、舞台奥まで全て見せる素舞台に役者2人が立っている時点で、もう、泣きそうになる。これを見せるか?いまから、「あゆみ」という「全ての人をぎゅっと一人の人に詰め込んじやったみたいなモノ」を見せようとするその直前に、なにもないもの、そして観客全てに開かれた空間を、まず、見せてしまうか?そこに、畑澤先生と生徒たちの思いっきり力強いマニフェストというか、もう、誰にも何も言わせないくらいのまっすぐな強さ、立ち入ることを許しているのに邪魔できない健やかな結界の存在を感じる。そして国立劇場ならではの花道からの登場。この呼吸の抜き方、はずし方。畑澤演出の醍醐味。
はじめの一歩からは、ほぼアゴラ初演に近い形で進行。「赤ん坊のよろけかた」「会社での会話」等々、そこにはもちろん(初代あゆみーずとの間で)役者としての技量の差は感じたのだけれど、驚いたのは、「実年齢を役の年齢が追い越した」後に舞台上で起きたこと。実は失礼ながら、実年齢を越えた役を演じるにあたってアップアップする高校生を(ちょっとだけ)予想していたのだけれど、あにはからんや、役者の年齢に関係なく、演じられる年齢にも関係なく「彼女たちだけに作ることができるあゆみ」がぐいぐいと立ちあがってしまった。一体これは何なんだ?シビれた。柴戯曲のマジックなのか、畑澤マジックなのか?それとも、彼女たちに備わっている何かなのか?
車いすのシーン(初演にはなかった)には、ヤラれていると分かっていても、泣く。客席中が泣いている。これは畑渾節だと断言してかまわないだろう。泣かせにきやがって、と頭で思っても、やっぱり泣く。そして、役者たちはあくまでもクールだった。
後日、NHKテレビで放送されたのも拝見したが、やっぱり泣いた。まあ、泣く・泣かないはどうでもいいや。一度見始めたら、どうにも途中で止められなかった。ゲストの江本純子さんが、心の底から悔しそう、というか、なんとかしてガチンコでそれより面白い芝居が作りたいという顔丸出しでいたのが印象的。図らずも江本株が上がる結果となった。でも「どっかでこける」のが解法でないことは、江本さんならずとも知っている。どうする、みんな?(他人事みたいに言うなって?)
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