16/05/2010 マチネ
大変素直に、喜んで、楽しんだ。やはり繊細で愉快で力強い作品だった。
一定の動きが「わたし、これからしゃべります」のキューみたいな仕草に見えたり、キメポーズが出てきたり、話の筋がどうもループしているなーと思われる感じが、どうも、ブルースセッションの「もう一周!」のように感じられたり、そういうところで、やはり「演劇よりもダンスに近いですね」といわれると頷いてしまう。
「お別れの挨拶」のフリージャズは、小生浅学なりに「なんだか60年代フリージャズ風に、音場まで合わせて作りこんでるなー。ひょっとしてリズムセクションだけは過去のトラックから引っ張ってきてるのかなー。台詞に合わせてここまで頼める相手って、日本じゃかなり限られていると思うけど。」などと思っていた。当パンのインタビュー読んどけばよかった。コルトレーンですか。すいませんでした。音楽に合わせてたんですね。
そしてなんといってもこの「何にも言っていない」感じが素晴しい。じゃあ、全体の雰囲気やシチュエーション、かすかに匂わされる物語が何かを語っているかといえば、それも、無い。それも素晴しい。たまたま非正規社員が解雇されるシチュエーションを選んでいるけれど、そこには「非正規何とかしろ」とか「正規が下らないことばかり話して」という葛藤も一切無い。それも素晴しい。この、本当に、何も語っていないことが、素晴しい。
もし作・演出・パフォーマーが「台詞・振付・音楽」等々で何かを語っている「つもり」であったら申し訳ないけれど、それは「少なくとも僕には」一切伝わっていない。そこが素晴しい。
舞台に何かが載ること。そこで起きることに、100人なり200人なりの人間が飽きずに集中して1時間強見入ること。そのことの力強い政治性。これまで観た岡田利規作品の中で、これほど力強く政治的であった作品は無いと思う。チェルフィッチュ、斜に構えて観なくても良いんだと納得した。
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