2010年10月10日日曜日

青年団 砂と兵隊

25/09/2010 ソワレ

初演もかなり議論を呼んだ作品だとは聞いていたけれど、その評判どおり、本当に何ともいえない作品だった。

松井周作品を2つ観た後では、下手から上手へと砂の上を進む役者達はまるでジオラマの上をコンベアで運ばれる人形のようだ。この繰り返しの虚構のプラットフォームの中で、「現代口語演劇」が進行するのだが、正直なところ、その虚構のレベル感に、最後まで焦点を合わせ切れなかった。それは、青年団の芝居を見つけているはずの自分が感じる戸惑いに「不安」を植えつける一方で、「いつもの」セミ・パブリックな「ありそうな空間を」「覗き見する」感じに平田オリザと青年団が安住する集団ではないのだという点で僕を「安心」させるものでもあった。

月の砂漠でギターを弾くと、ロマンチックなどころか、音が吸われてまったく響かないばかりか、目や口や、身体のあらゆる湿った部分に蝿がたかって散々な思いをする、ということをどこかで読んだことがある。「砂と兵隊」の圧倒的な砂の上で展開される「現代口語の会話」も、いつもの「何か意図を持った空間(ロビー・客間兼食堂等)」や「具象的な小道具」の中で豊かに響きあうハーモニーの妙によりかかることを得ず、ともすれば砂に吸われる音を、懸命の「あと一押し」をもってどこかへぶつけようとしているように思われた。虚構のプラットフォームをいっそ全て取り去ってしまえば、「素舞台での芝居」と割り切ることも出来ようが、この一面の砂の上に立つ役者の負担はいかばかりであろうかと想像される。

その苦行の中から立ち上がる虚構の世界には、さすがは砂漠の話だけあって豊かな彩が纏わりつくことなく、極めてドライな時間しか進行しない。兵はいつか斃れ、人はいつか死ぬ。そのジオラマの外にはただ機械室の歯車がギシギシと回るばかりである。そんな不毛の世界を匍匐前進でにじり続ける青年団役者陣の筋力ときたら。

その砂漠のモノクロの世界の中に一滴の血が鮮やかに滴る瞬間が僕に掴めていたなら、と思う。そういう裂け目は、福士史麻とひらたよーこのシーンでは「予兆」として、堀夏子が叫ぶシーンでは「アフターマス」として示されるが、でも、けして舞台上に見つけることはできなかったのだ。それは、残念なことだろうか?それとも、「真っ当な」ことなのだろうか?

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