10/03/2010 ソワレ
大変よく身体の動くカンパニーで、勝負どころはやっぱりそこか。
アゴラ冬のサミットのラストを飾る冨士山アネットの「家族の証明」はシアターダンスを掲げて、僕なりの古い尺度に当てはめれば、「マイム、極めてダンス寄り」。
とある5人家族の組成から構成員に起きる事件、それへの対応を、「極めてダンス寄りなマイム」で綴る60分。5人のパフォーマーの間の距離、微妙な間合い、コンタクト、ぶつかり、ゴツゴツしたりベタッとしたりする接触面積の変化まで、いろんな距離感をいろんなスピード感で、かつ驚きのある動きで見せる手順には目を見張る。
が、それだけに、時として仕草・動きのテンションがゆるんで、60分の縦軸となる家族の「物語」に奉仕しているのがあからさまに見える時間が訪れると、途端に退屈してしまったのだ。
たとえば前半の「鏡を見る」シーン、長男が髪の毛を整えるところ。なぜ、テレビコマーシャルのような仕草なのか?もっと無表情でいい。こういう、中途半端に朝の情景を説明しにいく距離感(リアルと記号の間の)が、観る側の想像力を細らせるのではないか。リアルでなくてもよい。リアルでもよい。ただし「説明」に行くのはまずい。物語の辻褄合わせは、もっと観客に任せてしまえばよいのに、と思う。
それ以降も目を見張る「動き」を説明的な「仕草」と「表情」が邪魔をする展開が続き、後半「物語」が展開して時間の進みを支配すると、眠くなってしまった。
よくよく考えてみると「シアターダンス」の難しさは、まさに「シアター」と「ダンス」の微妙なバランスをどうやってヒットするかにあるのだろう。だから、このカンパニーに「もっと芝居しろ」とか「もっとダンスでよいのに」という批判をするのは見当違いなのかもしれない。が、その「敢えて選んだイバラの道」が現段階で花開いているとは思えない。逆に言うと、じゃあこのやり方がうまーく実を結んだら、今まで観たことのないモノが観られるのかもしれない。それはそれで楽しみではある。
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