2016年3月13日日曜日

The Encounter

05/03/2016 19:30 @Barbican Centre

フレームの嵌め方、ガジェットの駆使、語り手の技量、全てにおいて圧倒的な一人語り芸。サイモン・マクバーニーの才能の懐の深さを思い知る。

語りのレベルを複数設け、そこに聞き手を取り込んでいく手管の洗練、観客全員にヘッドセットをつけさせ、知覚を混濁させることで、現実と虚構の境目のあやふやなところに観客を宙づりにする手管、そういった、極めて「日本の小劇場演劇的な」「非常に洗練された」上演を行ってもまったく鼻につかず、バービカンで「幅広い層の観客に対する」上演を可能にするのは、プロダクションの出発点=ゴールが、演者による一人語り芸であることのしっかりした自覚と、全ての手練手管が「よりよく楽しんで聞いてもらえること」への合目的性に向かっているからだと思う。こんなにも仕掛けに溢れているのに、こんなにも地に足が付いているのだ。

そもそも、冒頭、マクバーニーは、自分がどんな手管を使って観客の近くを欺しにかかるのかについて、延々と時間をかけてネタバレしてくれるのだ。
・距離・方向がリアルに感じられるマイクとヘッドフォンの仕掛けの説明。
・だから、観客には舞台上で演者が仕掛ける「ウソ」が見えているのにも拘わらず、耳を伝わって入ってくる情報にまんまと欺されてしまいますよ、というアドバイス。
・リアルタイムでの語りと、機械を通して変成されたリアルタイムの声、録音された語り手の声、変成・録音されて再生される語り手の声、録音された効果音、リアルタイムの効果音、そうした全ての音は、ヘッドセットを通して観客の耳に届くときには、実は全て等価であって、その情報を過去・現在・未来、自己・他者、ここ・他所に仕分けするのはあくまでも自分たちの脳なのだという事の解説。
要は、そういうふうに、これから、自分は観客を欺しにかかるのだから、よろしくね、っと言っているのだ。

そうやって、全て手の内を晒された上で、それでもなおその仕掛けに喜び、驚き、語りに身を浸すことが出来ることの幸せさ。その場に居合わせることが出来た事への感謝。

日本で芝居観てて、そういうところにまで心配りが行き届いている人たちというと、快快かなぁ、と思う。あと、東京デスロック。アゴラで観た快快の「へんしん(仮)」、練馬の公民館で観た「Y時」、あるいは東京デスロックの「シンポジウム」。彼らが、キャパ1200人の小屋で、圧倒的な予算と技術力を与えられたときに、こういうものが観られるのかもしれないな、と思ったりもした。

かたやサイモン・マクバーニーは、世界に名だたる巨匠である。
なのに、この巨匠は、観客が彼の世界に近づこうとして近寄ってくることを良しとしない。むしろ、彼の方から、上演の都度、観客の方へとやってくる。個人レベルの話をしながら。携帯をいじりながら。自撮り写真を娘に送りながら。そこから、1200人を掬い取って、騙しの手管を全部ネタバレして、丁寧におびきよせて、すいーーーーっと自分の作りあげた、まさに現実と虚構の入り交じった世界の遠く彼方へと連れて行ってくれる。
(舞台なので「現実と虚構がいつまでも入り交じらざるを得ない」のがポイント。これが小説や映画なら、何を遠慮することも亡く虚構へと連れて行かれてしまう)
そのプロセスの全てを全力で受け止め、愉しむことが出来る希有な舞台。素晴らしかった。

肝心の(いや、もはや肝心ではないのかもしれない)「語られる中身」だけれども、それは、米国の写真家Loren McIntyreがアマゾンの幻の部族の集落を訪れたという話。それ自体は、よくあるアマゾンわくわくドキドキ大冒険ものと言ってもよく、コミュニケーションに関する主題が舞台の仕掛けとリンクしている、というもっともらしい指摘をしてもあながち外れてはいないと思う。
でも、本当にすごいなと思ったのは、「分かんない言葉を話す人々」との邂逅を、一人語りで語ってしまおうとすることの大冒険の方に、なんだ。それこそが、舞台で僕が目撃したい、勇気と知恵をもって立ち向かう大冒険なんだ。

僕は必ずしもコンプリシテ信者・マクバーニー信者ではないし、春琴なんかはむしろ大嫌いな部類に入るんだけれど、でも、この"The Encounter"は凄かった。

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