2016年10月1日土曜日

地獄谷温泉 無明ノ宿

17/09/2016 15:00 @パリ日本文化会館

地面を深く掘り進めていくと、その奥底にはマグマがグラグラ煮えさかっていて、
人に見えないところでグラグラと、ゆっくりと、ダイナミックに、暗黒の中を蠢いているのだろう。
そして、その蠢きが地表近くまで来ている場所が時々あって、そこには温泉が湧いて、
気立ての穏やかな温泉ではそれは適温となって人の肌に触れ、
気立ての荒い温泉では高温の熱湯となって吹き出すのだろう。

この、庭劇団ペニノの芝居は、そういう芝居だったのだろうと思う。

前景に立って物語を進める人形遣いの親子は、外見は人目を引くけれども、そしてまさに「怪演」というに相応しいけれども、
実は、その他の登場人物 - 村人たち - の人々の心の動きの触媒である。触媒、でしかない。

この芝居を観ながら筆者が追い掛けていたのは、実は、マメ山田さんや辻孝彦さんが次にどういうアクションを起こすか、ではなくて、
そこで、他の登場人物達の感情・心がどう動くのだろう、ということだったのではないか。

そうやって、異形の者たちを前面に出しながら、実は、よりダイナミックに蠢いているのは、他の湯治客の心であり、それをまた眺めている観客の心である。

辻さんの演じる「息子」が、情動に欠ける、いわば「触媒」に徹した真っ黒なモノ、であったのに対し、
マメさんの「父親」は、その構図(自らが他人の情動の触媒となっていること、息子にはその自覚すら与えていないこと、そして、この芝居の構図の中で観客の心が動いていること、そうした全て)
を全部見通す存在として舞台に立っていた。
「息子」は人形と人形遣いへの奉仕に徹する一方で、「父親」は人形と共犯の関係を結び、周囲の人間にその暗黒のグラグラに触れるよう誘っている。
そこに触れた瞬間、そこにある深ーい闇への恐れから思わず手を引っ込めてしまのだけれど、情動の奥底のグラグラが地表に噴き出して、そこにドラマが生まれる。

芝居の前景と後景が実は入れ替わっていることで、芝居としてのバランスが非常に良く取れていた。
舞台美術も素晴らしいし、役者もみんな素晴らしい。役者達の裸の身体は、マグマの熱が地表に触れたときの温度の感覚とそれへの反応を舞台上から伝えて、そこに彼らが裸でいることの必然を感じさせた。
この芝居、観ることができて本当に良かった。

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