2016年7月17日日曜日

Queens of Syria

09/07/2016 19:45 @Young Vic

シリア人の女優13人による「トロイの女」とその周辺。冒頭、13人が舞台に登場した時点で涙が出てきて止まらない。彼女たちが舞台に立つこと自体が強烈に政治的であること。政治を語らずとも - アサドという名も、ISという名も、欧米諸国の名前すら、一切口に出さずとも - 彼女たちが舞台にいること自体が十分に強力で、自分はどの顔をしてこの客席に座っていられるのか、と自問し続けざるを得ない。

彼女たちは語る。ダマスカスやホムスでの暮らしについて。お気に入りの壁紙や庭の花壇や調度やごちそうや家族との暮らしについて。ある者は語る。自分は台所にいて、わが家の女王であったと。またある者は語る。いとこの死について。兄弟の脱出や自宅への爆撃や頭上を旋回するミグや国境で袖の下として差し出したスマートフォンについて。彼女たちは自分たちが失ったものについて語る。家族、親族、住居、スマートフォン、街、国。淡々と、泣きを入れずに語る。でも、時には言葉に詰まり、涙を拭う。無理もないだろう。でも、自分はもらい泣きしない。何故ならこれは舞台上演だから。お涙頂戴の感動の一端にあずかりたいのであれば、他に行くべき劇場は山ほどある。

舞台俳優としての彼女たちは、取り立てて凄みのある、技術を備えた役者達ではない。とてつもない出来事をくぐり抜けてきたからといって、必ずしも演技に厚みや渋みが加わるわけでも、顔に苦悩の皺が余計に刻み込まれているわけでもない。文字通り、等身大の、シリアの女性達が、舞台に立って、「演技している」。

これは、演劇なのか。アジ演説と変わりないのか?

筆者にとっては100%演劇である。たとえ台詞が一言もなかったとしても、声を揃えて「トロイの女」の台詞を読まなかったとしても、彼女たちが舞台に立っているということ自体が、十分に演劇的であり、十分に政治的である。等身大の姿が、そこから始めて、シリアとロンドンの間の距離を感じさせ、過去と現在と未来の間の距離を感じさせ、彼女たちの内面にあるもの(そもそも内面なんて目に見えるわけがないのは分かっているけれども)を強烈に想像させる。それが、演劇ならではの圧倒的な力だ。だから、これは凄い演劇なんだ。そう思う

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