2016年9月13日火曜日

Mouse - The Persistence of an Unlikely Thought (Edinburgh Festival Fringe 2016)

23/08/2016 22:00 @Traverse 1

エディンバラフェス開幕のはるか前から完全売り切れ御礼の人気演目。Daniel Kitsonは去年も売り切れで見逃していたので、今回は超気合い入れてチケット確保。
まさにそれに相応しい怪作・怪演、Daniel Kitsonの独り芝居は、100分間ヘヴィー級のパンチを繰り出し続けて文句なしの大傑作。

客入れから持って行かれる。素舞台の会場に入ると、Daniel Kitsonが自分で舞台を作り始める。鉢植えやラジオや机、椅子、ゴミ箱、電灯、電話、色んなものを舞台裏から持ち込んで、定位置にセット。お次は電ドラ持ち込んで、ケーブルの配線まで。それにたっぷり15分。そして開演。

夜遅く出かけようとしていた、とある劇作家のところにかかってくる、間違い電話。
相手「これ、俺の携帯番号なんだけど、お前、俺の携帯盗んだだろ」こっち「盗んでねーし。これ、大体、固定電話だし。てめーの間違い電話だろーが」相手「そんなはずはない」というやりとりから始まる。
「君の書いてる芝居のプロット、聞かせてくれよ」「さわりだけね。すぐ出かけなきゃなんないから」。
で、それから12時間。延々と続く男二人の長話。
「じゃあ、切るね。急いでたんだろ?」「もう良いんだよ。もうちょっと話させろよ」
「あ、ちょっと待ってて。子供に朝ご飯ださなきゃなんないんだよ」
「もしもし?」「あ、妻ですけど。起きてきました」
こんな感じで続く独り芝居。電話の向こう側の声が録音なのか役者の声なのかは判然としないが、舞台上にいるKitsonとは別人の声。

っていう、20−30分くらいのコントのような様式を取りながら、この芝居が「芝居」であるというのは、それは多分、劇中の劇作家が書いているという物語と、劇作家と間違い電話の主との会話と、Daniel Kitsonがこれを上演するというアクトと、観客がそれを見ている、という構造が、凄くきちんと意識されて、会話の内容・物語の内容が、グリグリとその構造の中を掘り進んでいってしまうからだったのではないかと考える。そして、それを、舞台上には劇作家だけを生身で置くことで、徹底的に一人称芝居で作り込んでいくという力業。しかも緻密。

敢えてたとえるなら、多田淳之介の「三人いる」を、一人で、長尺で、かつ、入れ子の範囲を、3人の会話の中で押し広げるのではなく、舞台上の一人の人物の奥底、そこまで潜ったら戻ってこられないじゃないか、っていうところまで深く潜らせていく、そういう芝居だったと思う。

女にメッセージを伝えるネズミ。それは本当にメッセージだったのか?ネズミだったのか?それはいつ、どこであった話なのか?
間違い電話なのか?いたずら電話なのか?
「妻」のいっていることは信用できるのか?
二人の男の記憶はどこまで一致していてどこで捻れているのか?
この劇作家自体、どんだけ変な男なんだよ?いや、Daniel Kitson自体相当変わった人みたいだけど。

凄い体験だった。Telegraphは「長すぎる」って書いていたけれど、それは、おそらく、あまりの濃さに、後半疲れちゃったんだろうと、ちょっと同情しないでもない。
敢えて難癖をつけるなら、「観劇体力に欠ける」観客には本当にしんどかっただろうと、それくらい「怖いところ」まで潜っていく、観るにも覚悟のいる芝居だった、それをゴリゴリ押し込んできた、そういう点かな。

これは、是非、山内健司主演での上演を観てみたい。と、真剣に思った。
Traverseの戯曲販売コーナーに行ったら、「Kitsonは自分の公演の上演台本、一切出版しないんですよ」とのこと。残念。そこまで変わり者だったか。

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