2016年5月25日水曜日

A View from Islington North

21/05/2016 14:30 @Arts Theatre

正面切って「現代政治を諷刺する」と宣言して、そのものズバリ政治諷刺芝居6本立て。当たりもあればハズレもあって玉石混淆。
始まって最初の週末、客席の埋まり具合が若干寂しいのもむべなるかな。

冒頭の”The Mother”は先ず諷刺どころかおセンチさが先に立ってアジ芝居じみ、ピンとこない。
3本目の”The Accidental Leader”と5本目の”How to Get Ahead in Politics”は、それぞれ「労働党のコービン下ろし」と「保守党の選対コメディ」を狙った正統派政治諷刺コントで、起承転結うまーくまとめてあったが、コントは所詮コントの枠を出るものではないし、テレビの諷刺もの(”Yes, Minister”や”The Thick of It”)の方がむしろより上手に作ってあり、かつハチャメチャで楽しめるんじゃないかとも思われる。

その点、2本目のCaryl Churchillによる”Tickets Are Now On Sale”と、4本目、David Hareの書き下ろし”Ayn Rand Takes a Stand”は、前掲の3本と比べて芝居として格段に面白く、しかも諷刺としてもバッチリ作用して、この二人、伊達に巨匠と呼ばれている訳ではないのだと思い知る。

Churchillの作品は5分足らずの掌編だが、他愛のない男女二人の日常の会話が、繰り返される中で微妙なズレを生じ、笑って良いのか悪いのか、そのズレがエスカレートしていく。それを、日常の背後に隠されている政治性を一枚一枚服を引きはがすように暴いていくと見るのか、事態がエスカレートしているのにも拘わらず、日常の報道の中でそれへの感覚が麻痺していく様を描いていると見るのか、それとも他にも色々と見立ては成立しそうにも思えるけれども、いずれにせよ、シンプルな仕掛けによって観客の想像/妄想のスイッチをカチッと入れて、毒と諷刺がバッチリ撒き散らされる、切れ味抜群の芝居だった。

一方、David Hareによる”Ayn Rand Takes a Stand”は堂々たる風格、現代諷刺劇というよりはむしろギリシャ古典劇にも似て、重厚な会話で綴っていく。ちなみに、Ayn Randという女性は、筆者も芝居を観るまで知らなかったのだが、20世紀米国を生きたロシア系の思想家/小説家、「客観主義」を唱え、「資本主義急進派」を自認した人物。このアインが対峙するのは、スーツをビシッとキメたインテリ男、ギデオンと、ブロンドのボブでキメた強面の女性、テレーザ。すなわち、現在の保守党政権の大蔵大臣ジョージ・オズボーン(彼は13歳の時に自分のファーストネームをギデオンからジョージに変えている)と、内務大臣テレーザ・メイである。ジョージ・オズボーンはUKのEU残留派筆頭、一方のメイはEU離脱は支持しないものの、移民・難民の受け入れに極めて否定的なスタンスを取っていることで知られている。そこで、自らもロシアからの移民であったアインが、資本と同様人間の移動も自由にすべきとの持論を展開、オズボーンを焚きつけながら、メイの説得を試みるという筋立て。いや、この3人のやりとりが、どうにも聞き応えがあって、面白かったのだ。オズボーンとメイのキャラ設定が、日頃メディアで触れている彼らのキャラと一致しているような(だから、舞台上で見たときに、あ、こりゃオズボーンだ、テレーザ・メイだって分かるぐらいには一致させている)、でも、微妙にずらしているような(そりゃそうだろう)、そのあたりの感覚が、諷刺の王道を感じさせる。実名を出しながら、実物でない感覚。

なんか、こういうの、他になかったっけ?ギリシャ劇だっけ?
あ、分かりました。中江兆民の、三酔人経綸問答ですね。

そんなものを舞台に載っけて面白いのか?話が難しすぎないか?って思われる向きもあろうが、いや、これは、政治諷刺劇ですから。そう断りましたよね?
って言われるとぐうの音も出なかろう。
その上、舞台上の人物が三人三様じゅうぶんにキャラ立ちして、全く見飽きないのだ。この一本だけでも、十分に観に行く価値がある。

この、休憩一度を挟んで90分の舞台、6本のオムニバス、音楽は、過去30年間政治にコミットする歌を作り続けてきたビリー・ブラッグが参加していると聞いていたのだが、劇中音楽が一切無く、あれれ、と思っていたら、最後に出ました。ブラッグ氏による歌を登場キャスト全員で、アカペラで。玉石混淆の5本の芝居を観た後はこういうオチで締めくくるのが吉。楽しんだ。

0 件のコメント: