2016年5月15日日曜日

The Iphigenia Quartet

07/05/2016 @The Gate

エウリピデスによる「アウリスのイビゲネイア」を4つの異なる視点から描く、40分の短編芝居の4本立て。マチネは2本80分、ソワレも2本80分。1本につき4人の役者が出演。けだし、クォーテットである。「イピゲネイア」と「クリュタイムネストラ」を演じる4人組と「コロス」「アガメムノン」を演じる4人組とで、役者は合計8人。それぞれにキャラがきちんと立って、プロダクションそのものは地味な趣向であるけれども、見応えのある160分間だった。
ギリシャ軍がトロイ戦争へと出陣する際、父アガメムノンにより生贄として殺される王女イピゲネイア。その母クリュタイムネストラ(後年、トロイを滅ぼして帰還した夫アガメムノンを殺害して娘の仇を討つ)。アガメムノンの弟、寝取られ男メネラウス。イビゲネイアの偽りの婚約相手に仕立て上げられ、一旦はイピゲネイアを連れて逃げようとするアキレス。その一部始終を外側から見ているコロス達。さて、このドラマ、誰の視点でどう料理するか。

4つの短編に筆者なりにタイトルをつけるとすると、「イピゲネイア、生贄少女と呼ばれて」、「コロス四人組のトロイ戦争観光」「サラリーマン社長アガメムノン」と、「クリュタイムネストラの不在」。

特に4つの芝居の間で齟齬や繰り返しを避ける工夫が為されている風でもなくて、芝居のスタイルもそれぞれ全く異なるから、この話を良—く知っている向きにはかったるい向きもあるのかも知れないが、筆者にとっては新鮮かつ飽きが来ない願ってもない構成。「生贄少女」で物語の骨格が示され、「コロス観光」で古代のお話が現代の観客(家族の外)の視点から再構成され、「社長アガメムノン」でサラリーマンの悲哀が古代ギリシャに投影され、「不在」では、ドラマの中心に出てこなかった母親は、ドラマの外で何をしていたのかに突っ込んでいく。

「生贄少女と呼ばれて」は、細身の少女イピゲネイアの「やったろうじゃないの」と、ストラットフォード辺りからやって来たマッチョアキレスの「え?オレ、彼女連れて十分逃げれるし。何?どうすんの?」的な掛け合いが見事。

「社長アガメムノン」では、アガメムノンが一国の王を名乗っているのにも拘わらず、実は王と兵隊の権力関係が転倒していることが示され、アガメムノンの意思決定は彼個人ではなく、家庭人としての彼ではなく、組織のコマ(一機関)としてのものに過ぎなかったことがあぶり出される。あれ?じゃあ、これ、家族関係の悲劇じゃないよね?自分の意思で家族の日程も決められない哀しきサラリーマン社長の話だよね、って思ってしまう。ブランドものバッグ抱えたクリュタイムネストラの出オチが衝撃的。

「不在」は、現代口語演劇でよく使う手である「戯曲の外で進行する物語のほのめかし」(この場合は、イピゲネイアが生贄として屠られる間、神殿の外で待っていたとされるクリュタイムネストラ)を、そのまま外に放置するのではなくて、メタな芝居を使って一体全体そこで何が起きていたのかに果敢に切り込み、やっぱり何も出てきようがないのだけれど(だって元の戯曲に書かれていないのだから)、少なくとも観客の意識を引っ張り回し、引っかき回し、終わったときにはこの古典悲劇を観る視点がちょっくら変わっているという趣向。やはりUKの芝居では、「ほのめかす」なんてえ柔な手法じゃ観客に刺さらないのか、相当直截なやり方だけれども、日本流の婉曲に慣れた筆者にはとても新鮮だった。

「コロス観光」では、コロスの視点(物語の核となる家族から距離を置いて事の顛末を眺める視点)と、物語全体を振り返ることが出来る現代の観客の視点(つまりわたしたちの視点)を、誰に向けられるともない台詞を繰り出し、交差・混濁させて、イピゲネイアに関する一連の事件が周囲に巻き起こす感情すらも混濁させていく。そのピークが、生贄の姿が公衆に晒される瞬間:
「え?」「鹿?」「え、鹿なの?」「ここまで引っ張って、鹿?」「そう落としますか。鹿ですか?」

まるでわたしたちが舞台をニコニコ動画で観ているかのように、舞台と観客席を横切っていく台詞の束が、イピゲネイアの悲劇の「他人事」としての性質を鮮やかに浮かび上がらせて秀逸。
もちろん、この秀逸なパートを書いたのは、観客の意識に切り込むキレッキレの戯曲を次々に書いている、筆者が勝手に敬愛するクリス・ソープ氏である。

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