2016年10月2日日曜日

Yerma

24/09/2016 14:30 @Young Vic

ガルシア・ロルカのイェルマを現代英国に翻案して、子供が産みたくてしょうがないアルファブロガーのジャーナリストを(Dr Whoで知られる)ビリー・パイパーが熱演!
いやー、こりゃ見応えありますねー、ということで新聞の劇評も4星・5星目白押し、さぞかしな芝居なんでしょうね、と観に行ったが、
あぁ、ビリー・パイパーって、演技できるんだなぁ、ということ以外に得られるものは何もなし。

前半はゆったり始めつつも、暗転が多くて目障りだなぁ、との印象。
暗転の度に掲示板に「2週間経過」とか「3ヶ月経過」とか表示されて、へぇ、そうなんだ、とは思うけれど、
役者の会話をじっくり味わう余裕がなく、むしろ、話を無理矢理進めるために巻きを入れている感じがして、落ち着いてみていられない。

そのうちに、ビリー・パイパーの子供欲しい病がエスカレートして、日常生活に支障を来すようになってくるのだけれど、
そうなったトリガーが見えない。
そう思う動機が見えない。
その背後にある社会的状況はそもそも見せようとしていない。

自らの妊娠・妹の妊娠に対する「周囲からの期待・思惑」「共同体からのプレッシャー」は一切関係なく、さすが現代英国、全部「個人の自由意思」である。
え? でもそれ、ロルカが元の戯曲で書いてたことからスライスしてませんか?
いや、ビリー・パイパーの個人の意思とそれに振り回される周囲の人間、という芝居で、いっこうに構わないのだけれど、
それじゃあ、本当に、ロルカの原作使う必要なくないかい?
あるいは、ビリー・パイパーのオブセッションの対象は、子供でなくても全然良くないかい?言ってしまえば、かっぱえびせんへの執着でも、服に対する執着でも、芝居に対する執着でも、何でもいいんじゃないの?で、イェルマ、っていうからには、「何故彼女は自分が子供を産むことに執着せざるをないのか」がないと。
説明はしなくて良いけど、そのバックグラウンドを観客が想像できるぐらいの種まきはしておかないと。

二方向の客席から長方形の舞台を挟んで、舞台と客席の間のアクリル板で「舞台を観察している」感を出したか。
マイクで音を拾ったり、舞台転換もおカネを掛けてそれなりにスマートにやっていたし、そりゃそれでいいんだけど、
そこまで。

ビリー・パイパーはそれなりに抑えた演技も出来る役者で、共演の男優陣もきちんとしていたから、もうこれは、プロダクションのコンセプト自体が当初から破綻していたのだと諦めるほかない。
熱演、ご苦労様。残念でした。

0 件のコメント: