2016年5月25日水曜日

Boy

14/05/2016 19:30 @Almeida

これは、大変な芝居だ、と思う。表は静かに、ロードムービー風のタッチで見せておきながら、実は相当深く抉ってくる芝居である。

劇場に入ると、幅三尺のベルトコンベアが蛇行しながらゆっくりと周回している。客席はそれを取り囲むように、あるいは見下ろすように組まれている。コンベアの上には10人余りの役者が座って、回転寿司のように場内を巡っている。機械の作動音なのか重低音の音楽なのか判別し難い音がずうっと流れている。よく見ると、役者達は腰かけているけど、お尻の下には椅子が無い。空気椅子である。空気椅子を客入れ中10分も15分も続けていられるのは、きっと、大道芸人が良くやっている「メカ空気椅子」の仕掛けがズボンの中を通っているのだろうと察せられる。

このコンベアに乗っている一人の少年、おそらく16−17歳、が、この芝居の主役である。主役だけれども、彼にはほぼ何も劇的なことは起きないし、彼は周囲に対して何ら劇的なことを引き起こさない。色々な物事が、開演後70分の間、舞台上でコンベアに乗って起きるのだが、それらは全て、主役の少年の視野の中で、あるいは、視野の外れに近いところで、起きているにも拘わらず、彼の存在と関係なく起きているようにも見える。でもやはり、この少年はこの芝居の主人公である。この芝居は、少年の自宅近辺、おそらくロンドン市内の、イーストエンド周辺の町のバス通りから、ウェストエンドへ、そして再び彼の住む近所の町へと移動しながら、少年の足取りと視線に従って進行していく。

周り続けるコンベアの上に、バス停や、玄関のドアや、役所の受付や、PC机や、スーパーマーケットのセルフチェックアウトの機械が置かれて、色々な場所が立ち上がり、そこに20人の役者が一人で何役もこなしながら様々な出来事が立ち上がる。そうやって生まれたシーンは、コンベアの流れと共にぶつ切りとなって消えていく。芝居の時間は淡々と流れ、淡々と終わる。

簡単に括れば、16−17になって、学校を卒業して、進学もせず、職にも就かず、友達も彼女もカネも無い、口べたで、さりとて、頭の中に渦巻くものを一定の考えに纏めていく気力もきっかけもないまま、居場所のなさを抱えて街をぶらつく少年の話。行き場の無い、外界との交流も無い日常を淡々と描ききることで、現代社会が見落としているものを浮き彫りにする作品だ、と言っておけばよい。

でも、そんな芝居では僕に突き刺さってくる訳がない。筆者をドーーンとさせてしまったのは、「寂しい少年」とか「自分もそうだった/自分にもそういう部分がある」っていう感情ではない。

劇場にいる観客は、少年の視線を辿りながらも、少年の側にはいない。どちらかと言えば、少年の周りにいる「大勢の人々」の側にいる。わたしたちは、バスを待つ人々であり、友人であり、役所の職員であり、医師であり、スーパーマーケットの店員であり、客であり、身なりの良いビジネスマンであり、酔っ払いであり、路上生活者である。そうしたわたしたちが、ある一人の、プラプラしている少年に突き当たる時間は、一日の中でせいぜい何十秒か、長くて何分かがいいところだろう。舞台を通り過ぎていく人々は、少年から観れば通り過ぎているのではあるけれども、実は、それはわたしたちであって、舞台上の少年の姿は、それは、通行人からちらっと見える、見たところ何もしていないしこちらにとって何の実りも無いどこかの、とある少年の姿だ。

わたしたちは、そういった、街で見かける人に対して、ぼんやりと、「あぁ、この人にも、彼/彼女なりの、それぞれの物語や人生や起伏や、そういったものがあるんだろう。いや、あるはずだ」と勝手に思い込んで生きているのだけれど、この芝居を観て、
「あぁ、世の中には、この少年のように、語るべき物語もなく、起伏もなく、行き場のない、それを外に示すことも出来ない、そういう人がいるんだなあ」
って思う人もいるだろう。一方で、
「いやいや、それは断片断片だけ見ていても物語は読みとれないさ。本当は、この少年にも、語るべきものはあるんだよ。それを読み取ろうとしない周囲の無関心を抉り出したのがこの作品だよ」
っていう人もいるだろう。そしてまた、
「そんなのはあんたの勝手な思い込みだ。アルメイダまで芝居を観に来る余裕があるあんた達だけが抱くことの出来る思い込みだ。こいつにはそんな、語るべき、感動させるべき、考えを引き起こさせるべき、そんな物語はそもそも無いんだ!」
っていう人もいるかもしれない、そう思ったときに、筆者はドーーンとやられてしまったのだ。筆者には、答がないんだ。何故なら、そういう少年に何分か以上きちんと目を向けて向き合うことがないからなんだ。

この芝居が映しているのは、少年の姿でも、少年の目から見た街でもなく、少年を見る「大勢の人々」である。主演は少年だけれど、彼はわたしたちの視線や感情を移す鏡である。それに気がついたとき、筆者は、落ち着いて安全な客席に身を置いてこの芝居を見つづけている自分に対して、ゾワゾワとする感覚を抱いた。そしてそれは、芝居を観てから1週間経っても、折に触れて戻ってくる感覚である。当面、この不安な感覚から逃れられない気がしている。

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