2016年5月10日火曜日

Cleansed

23/04/2016 19:30 @National Theatre, Lyttleton

1998年に亡くなったサラ・ケインの戯曲をNTで。プレビュー時には「途中退場続出」とか「上演中に失神する観客も」とか、拷問やレイプのシーンの過激な描写が取り上げられて、うーん、それじゃあ三流興行主の思うつぼだろう、ただし本作はNTでの上演だし、サラ・ケインの自意識過剰も多少はトリムされて観るに堪えるものになって、加えて良しにつか悪しきにつけスパイスの利いた舞台になっているんじゃないかと期待して観に行ったのだが、結果としては取り立てて騒ぐほどのインパクトはない。

ぶっちゃけて言えば、Institutionalな暴力を並べてみました、というだけのできの悪い戯曲を、よくぞここまで観るに堪えるプロダクションに仕上げたものだと思った一方で、じゃあそもそもそんな戯曲を今、ここで選んで上演する意味って何でしたっけ、とも思ってしまった。いや、しかしである。筆者はもとの戯曲を読んだことがないので、本当に戯曲のできが悪かったのかは、確かめるべくもない(読む気もしないし)。

上演中は、「豪快に失敗しているなあ」と思いながら見た。レストランにたとえれば、エビフライメンチハワイアンハンバーグ載せカツカレー、ってのが出てきて、これでもかってくらい色々なモノが載っているのだけれど、どれをとっても食材が壮絶にスーパーで買ってレンジでチンしたお惣菜の味で、思わず吹き出しちゃったよ、っていう感じだろうか。

ケインが舞台に載せたいと思っていただろうと思われるもの — 暴力、権力、その濫用 — その他諸々、筆者としては、Institutionaliseされた暴力、として括って理解したけれども、その構成・並びが、およそ、芝居として人前に出せるモノとして形や順番をなしていた有様を想像することはできず、それを一つの観るに堪える芝居に編み上げるのには大量の工夫と追加マテリアルが必要だったのだろう(舞台を観ていて、そういう苦労が表に見えてくるような、学生の頃の筆者の渋ーーい記憶が蘇ってくるような、そういう舞台に仕上がっていたのだ)。
それは、筆者には、ケインの甘えとしか思えない。で、その要素を、1時間40分のパッケージとして成立するまでに仕立てた腕前には感服するのだが、やはり、NTに芝居を観に行くからには、それをクリアした上でさらに何が出てくるかを、筆者は期待している。それなりに仕上がったことをもって、この芝居を面白いと言うわけにはいかない。

あと、議論になったのは、「前を向いたまま後ずさってはける」ことの面白さ。筆者としては「生きてるものか」の枡野さんを観てしまったこともあり、それ以上に面白く後ずさってはけていただかないとどうにも不満が残る。ただし、再現不可能なものとしての(訓練を受けていない役者による)演技と、はじめてのようなことを何回も初めてのように再現することができる(訓練された役者による)演技の比較はとても難しくて、従って、後ずさりでの出はけについて、この演出に注文をつけることはやはりできないなあ、とも思う。でも、それだったら、後ずさらなくてもいいじゃん、って思ったり。

色々言ったが、一旦の結論としては、筆者にとってケインの戯曲は何度読んでもつまらないのだろうし、筆者の思う戯曲とは別物だと割り切った方が良さそうだ。でも、5月のフェードルは観に行っちゃうんだけど(ただ、ケインの戯曲だけを下敷きにしているわけではないと聞いているけれど)。

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