31/08/2015 12:00 @Four, Assembly George Square Studios
文句なしに僕の今年のエディンバラで最も素晴らしかった舞台。
3人の語り手による、1985年5月、ヨークシャー南部、ブラッドフォード市内にあるブラッドフォード・シティ・フットボール・クラブの本拠地The Valleyで起きた火災事故の記録。リーグ3部の優勝を決めたシーズン最終戦の前半途中、スタジアムから出火し、56人が犠牲となった。
焼けたスタジアムにいた生存者2人と、反対側にいて経緯を目撃した1人。
おそらく、実際の証言を元に編集したか、ひょっとすると編集を加えずに上演しているのだと思われるのだが、
「過去に起きたことについて役者が語り伝えること」が、これほどまでに強力に迫ってきたことは、僕の人生でこれまで無かったし、今後も無いのではないかとまで思われる。
過度に感情移入すること無く、観客に感情を喚起させてやろうとする妙な色気も無く、淡々と当事者の記憶<見たこと・聞いたこと・自分がしたこと・記憶していること・記憶していないこと>を、役者が語っていく。
語られる言葉に、まず、無駄が無い。相当信頼に足ると思わせるリアルな語り口、思わせぶりの不在。レトリックや誇張の不在。これが素晴らしい。
ニュアンスを加えない、抑えた語りも余りにも素晴らしい(そして、スコットランド訛りに悪戦苦闘してきた我が身には、ヨークシャー訛りが、聞き取れる!という喜び)。
加えて、一人が語っているときの他の二人の表情が余りにも素晴らしいのだ。視線は真っ直ぐ斜め上から動かさず、一体どこを見ているんだろう。生死を分ける出来事が淡々と語られる中で、語り手もまた、ただ淡々と他の語り手の言葉に耳を傾ける。
そこには、余計なニュアンスは一つも無い。だから、全てがある。恐怖も、怒りも、痛みも、やさしさも、安堵も、誇りも、悲しみも、後悔も、きっと全部ある。全ては語られない。でも、全てが想像できる。きっと聞き手一人一人、全く違うものがわき上がっているはずだ。ストレートな語りの中に、もの凄い質量が詰め込まれて、胸が苦しくなる。
当事者による「語り」を考えてみる。それが強い力を持つことは一種当然で、それは、常日頃テレビのニュースやドキュメンタリーを見たり、講演会に行ったり、学校に語り部の方を招いたり、これまで僕たちもそれなりに経験していることではある。
だが、この舞台では、役者が語り手を演じることで、とてつもない豊かさが加わっていた。
1985年から現在を経てこれから遠い未来に向かって、
・当事者の実際の体験と、記憶と、舞台に載っている事象とのズレと、reconciliationと、その感覚を語ることと、これから。
・それを演じる(ひょっとすると当時生まれていなかったかもしれない)「役者」の記憶と、身体と、これから(次の日の公演と、その次の日の公演と、公演が終わってから)。
・それを観る「観客」個人の1985年の記憶と、他の様々な災害の記憶と、演じられる場で感じたことと、それを記憶することと、その記憶を語ること。
・この作品に未だ出会っていない人が、未来の公演で、あるいは聞き伝えで、その記憶を何らかの形で共有し、また記憶することの可能性。
今、この、劇場の中の、質量が、過去から未来に向かう時間軸を得て、さらに大きく広がっていく。
「語り」が、当事者以外の人間に語られることによって、月並みな言い方になるけれど、遠い未来に向けて新たな生命を吹き込まれていた。
George Squareの小さなスタジオの中で、僕は、大昔の竪穴式住居の中の、あるいは、昭和の田舎の炬燵のある部屋での、「語り」を想像していた。また、今から50年後、おそらく、1985年当時の当事者が誰一人いなくなった後に、同じ話が語られる場面を想像していた。
The 56 が語られることによって、いや、もうすでに、何度も語られてしまったことによって、ブラッドフォードの1985年の出来事は、それ以上の質量と広がりを持っている。その現場の一回に、居合わせてしまったことを、とてつもなく幸運であると、芝居を観てから2週間以上経った後も感じている。
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