2015年7月2日木曜日

Temple

27/06/2015 マチネ @Donmar Warehouse

素晴らしい舞台だった。観ながら、涙出てきた。劇中(静かな芝居なので)しゃくり上げるのをこらえていたのだけれど、
終わったところで隣の女性から「良い芝居でしたね」って言われて、「すごかったです」と応えながら、声を出して泣きそうなのをこらえた。
観終わって劇場出てきて、テクスト買おうとするときに、売店窓口で泣いちゃうんじゃないかと思って心配だった。声がつかえた。
それくらい、大好きな舞台でした。

ウェストエンドの芝居には珍しく、90分一幕、休憩なし。
2011年、Occupyムーブメントの中で、セント・ポール大聖堂の前にもプロテスター達が陣取っている。
それを強制排除するべきか静観すべきか、決断を迫られるセント・ポールの主席司祭の苦悩。決断の日の午前中の何時間か。
窓の外にはセント・ポール寺院の大聖堂が常に見える。舞台上の大机には書類が散乱して、まるで青年団の一幕劇のよう。

っていうと、これ見よがしなウェルメイド深刻劇のようにも思われて、ちょっと躊躇しながら行ったのだが、なんとこれが、予想を遙かに上回る素晴らしい舞台。
主人公の主席司祭が、ラスト、どのような決断を下すのか、その揺れ動くココロを仔細に描く、なんていうありきたりではない。

正直、ラストがどうなるかなんて、途中からどうでも良くなっていく。主席司祭の置かれた場所・シチュエーション、そこに自分が「在ること」を受け止めざるをえない主席司祭の、一瞬一瞬の立ち居振る舞いから、片時も目が離せなくなっていく。

排除と共存、秩序と自由、経済と精神、そういった二択を迫る周辺人物の中で、自らを凡庸で優柔不断な人物だと断罪するところまで追い込まれる主席司祭。
周辺の人物はその点割り切れたもので、いや、戯曲の構成上、そういう造形になっているんだけれど、悩みはするものの、そこで「結論」を下すことが出来る人々だ。
そういう人々に囲まれたときに、主席司祭は、自分が、究極のところ、「正しい」結論が下せない状況に置かれていて、かつ、何らかの決断をしなければならない、ということに、自覚的なのかそうでないのか。
更に厄介なのは、この主席司祭、神様と人間と結ぶ存在でもあるので、「神様」と「人間界」の狭間でも苦しんでしまう。そもそも資本主義のルールとキリスト教(英国国教会)の折り合いをどうつけるのか。

だけど、おそらく、一番大事なことは、彼が、どんな形にせよ、実は「結論を出している」ということで、それは、「悩んでいるとき」でも「指示を出しているとき」でも、そのアクションを起こすことについて自分自身で決めているということなんだよな。そしてそれは、セント・ポール寺院の主席司祭だからこその悩みなのではなくて、誰もが抱えている瞬間なんだよな。それを役者と共有したと思った瞬間に、涙が出てきたんだ。
そして、芝居観終わった後で、「ヒッキー」の岩井さんや吹越さんを思い出して、あぁ、あの司祭は「ヒッキー」なんだって思ったら、また泣けてきたんだ。
ちょっと泣きすぎだけど。

臨時雇いの秘書が、ドジで間抜けでぜんそく持ちで大学中退でとっちらかってて、お前、日本の少女マンガなら確実にパンを口にくわえて玄関飛び出してきただろう、っていう風情なのだけれど、彼女だけは、「決断」「判断」から遠いところに身を置いて、それだけに軽やかに振る舞って、この芝居全体の重苦しいトーンの中でコミックリリーフを演じるとともに、主席司祭にとっての救いとなっていた。いや、この立場って、無責任のようでとっても大事で、彼女がどんなこといってくれても良いんだけど、で、うんうん、って聞くんだけど、結局、彼女のいうとおりにする必要も無いし、いや、最後は自分で決めるんだし、って思ったときに、逆に、彼女のような人がそこに居ることが、とっても大事なんだ。と思わせる。劇中においても大事なんだ、って思わせる。おいしい役だったな。

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