2015年11月16日月曜日

The Hairy Ape

04/11/2015 19:30 @The Old Vic

1920年代にユージン・オニールが書いた戯曲を2015年に上演。これが、まったく古くさくなく、力強く迫ってきた。
汽船の底で石炭を釜にくべる男達。そのリーダー格の男が、ある日視察にやって来た大資本家の娘に獣呼ばわりされてショックを受け、都会の連中に本当の地に足のついた暮らしってのがどんなものなのかを思い知らせてくれようとニューヨークまでやって来る。そういう話。
筋書きとしては、「都会のネズミと田舎のネズミ」にひねりをきかせた感じ。
こうやって書くと、いかにも古くさい。でも、舞台に載っているのを観ていて、ちっとも古くさいとは感じない。
いや、古いんだけれども、現代に、現代の役者の身体での上演に違和感がない。

前の週に観たUbu and the Truths Commissionsが、初演から20年で圧倒的に古びてしまったことを考える。
もっと言うと、この秋UKで大量に上演されたギリシャ悲劇も、何千年かたっても古びなかったり、現代に翻案しても古くさかったりする。
これは何故なのだろう?

テーマが古かったり、現代にも通じるものがあったりするからか?
それは一見ありそうに思われるけれど、いやいや、UBUの内容も、相当色々な時代・文化を超えて通じるテーマを扱っていたはず。

うーむ。仮説としては、
「違う場所で、違う人間によって、既にある戯曲を上演すること」に対して自覚的か、自覚的でないか、ということなのではないか、と考えている。
そこに自覚的でないか、あるいは、敢えて目をつぶって、あるいは「テーマが普遍的であるから、上演する時代・シチュエーション・観客に拘わらず同じことをしても良い」
と考えて、「自分たちの芝居」をしてしまうと、そこで古くさくなってしまうのかな、と。

日本でいうと、去年観た青年団の「暗愚小傳」が、初演から20年以上たっても古くなかったのは、
テーマもさりながら、現代口語演劇で演じる役者の身体が、時代に合わせて変わってきている、それを演出もしっかり踏まえていたからではないかと思う。

中野成樹+フランケンズが、古い戯曲を「敢えてあからさまに」現代日本人の身体で上演していたのも、とても面白かったな。そういえば。
このHariy Apeのラスト近くの演技を観ていて、フランケンズを思い出したんだ。フランケンズの役者はあんなにマッチョじゃないけど、
でも、外からの刺激に対する反応とか、現代人の身体を感じさせるという意味で、どっちも古くない。

UBUの芝居は、そういった点で、ちょっと自分たちのやり方に頑固で、ウブだったのではないかと思い至った。
(これをいうためにさんざん色々書いたわけではありません)

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