08/10/2015 19:00 @Unicorn Theatre
このところ一種流行りのようにもなっている、「不寛容に対する不寛容は許容されるのか」というテーマを、突如キリスト教原理主義者になってしまったティーンエイジャーと、
それを更生させようとする熱血理系女教師、それを取り巻く人々とで描いた意欲作。意欲的なのは良いけれど、あまりにもガチで深刻な問題を取り扱おうとしたらために、ラスト近くでストーリーと風呂敷を畳む作業に対して妥協せざるを得ず、なんとか(それなりに相応しい衝撃的な)結末は迎えられたものの、舞台としては失速してしまった残念な作品。
<以下ネタバレあり>
Martyrというのは「殉教者」という意味だが、この芝居では、
①原理主義に心身とも捧げてしまう人と
②文字通り手足を釘で打ち付けられてしまう人、の、
2つの意味を持たせられている。すなわち、主人公と、女教師のことである。当初、「教育に宗教の原理主義を持ち込むことは絶対に許さない」としていた女教師が、ラストで自らの足を釘打ちして「梃子でも動きません」=磔刑に遭うキリストと絵柄を重ねつつ、「宗教と教育の分離」の殉教者になってしまうことに、アイロニーをにじみ出させている。
が、実は、この話は、「原理主義者」対「宗教と教育の分離主義者」の話では終わっていない。それが失速の原因である。
女教師がどんどんテンパっていく過程で、実は、「原理主義者」対「テンパっている人」へと物語の構造は徐々にシフトしていたのだが、
主人公のティーンエイジャーが、「嘘をつく」瞬間に、この物語は明らかに失速した。この瞬間、それまでの「狂信者」対「狂信者」の、和解の可能性が見いだせない衝突が、
単なる「ウソつき」対「テンパった人」のありきたりな対決へと堕してしまった。作者が決して「狂信者が信念を守るためにウソをつく話」とか、「狂信者同士のぶつかり合いなんて所詮この程度だ」とか「冷静にいきましょうよ。みんな仲良く!」とかいうことを意図していないのはよーく分かるのだが、でもやはり、「嘘つきの狂信者」にはそれなりに対処法があるし、「テンパった人」には「冷静にいきましょうよ」と言えば済むのだ。
そして、どうにも解決しようのない問題を扱う緊張感溢れる芝居を見る目をしていた観客も、「ウソつき」対「テンパった人」の物語になった瞬間に、ドタバタ学園劇(ちょうど本谷有希子の「遭難。」のような)を観るときの「まぁ、現実にはこんなこと起きないんだけどね」という、余裕の目で舞台を眺めていられるようになってしまうのだ。
本当に恐ろしいのは、そして手に負えないのは、絶対に嘘をつかない、非の打ち所の無い「狂信者」である。そしてもっと恐ろしいのは、議論が白熱し、相手のウソによって追い詰められた挙句、自分の両足に釘を打ち込む逆上女ではなくて、きわめて冷静に、そして穏やかに、ロジカルに、自分の両足に釘を打ち込む人である。
トニー・ブレアのウソは怖くない。デイヴィッド・キャメロンのウソも、所詮人気取りのためと思えば怖くない。ナイジェル・ファラージュも怖くない。怖いのは、テレーザ・メイが、「移民の受け入れは英国社会を分断する恐れがある」と真顔で語る時だ。なぜならそれは彼女がそれを本気で信じて言っているからだ。右派がコービンを恐れるのは、コービンが本当に自分の言ってることを信じているからだ。
そういう手に負えなさを示すのに、やはりティーンエイジャーを持ち出したのは作戦として上手く作用していなかった気がする。もっといい大人を使っていれば、と思ってはたと思い出した。Nick HornbyのHow to be goodは、いい大人の間の「寛容に対する不寛容」の話だったなぁ、と。おそらく、何らかの形で折り合いがつくというのが、ハッピーエンドかどうかは別として、直視すべき現実に近いところなのではないかと思う。そこをぎゅっと直視して、観客にリアリティーを感じさせられれば。この作品は、その作業を最後の最後にサボってしまったように思われて、残念である。
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