23/05/2015 マチネ @Vaudeville Theatre
このところウェストエンドで一番評価の高かったRoyal Shakespeare Companyのストレートプレイの最終日。レスタースクエアにあるTKTSに並んで当日券、ストール席をゲット。
原爆の父と呼ばれた男、ロバート・オッペンハイマーの生涯を、UC Berkeley在籍時(1930年代後半くらい)から原爆投下後の名声と悔恨(1940年代後半)まで追いかけていく3時間。前半はちょっともっさりした感じだったし、「これみよがしなリベラル西海岸の学者連中」の見せ方が臭いと思ったりもしたが、2幕目に入って俄然緊迫度を増し、ブラックベリーの呼び出し音で場内に殺気が漲ったラストシーンまで、ぐぐぐっと見せきった。
うん。すごく良い芝居ではある。が、3時間かけて追いかけるほどの厚みはなかったのではないかという気もしている。
オッペンハイマー自身に加えて、各登場人物はそれなりに個性のある人物揃いなのだが、それらの人物の道行きにドキドキハラハラすることはない。彼らは皆、オッペンハイマーという「主役ならではの、巨大で歪んでいて複雑で、まぁ、芝居のタイトルにするのに相応しい人物」の添え物だってみんな分かってるから。
そういう、一つの自我に着目した骨太な展開っていうのは、西洋ならではの自我の取り扱い方を反映している気もする。僕からすると、こっちで芝居観てて辟易することの一つとも言えるのだけれど。うーん、でも、チェーホフの戯曲でそういうの感じたことはないなー。実は西洋の演出だとチェーホフの見せ方も違うのかなー?どうなのかなー?気になる。あと、シェークスピアの取り扱いも。
3時間以上かけて時代のうねりを見せる、という意味では、去年観た木ノ下歌舞伎の「三人吉三」は本当に凄かった。4時間かけようが、5時間かけようが、登場人物一人一人が特定のタイトルロールに奉仕するのではなく、きちんと存在感を持って演技し「部分部分を観ていても楽しめる」のにもかかわらず、それが、全体として大きな物語のうねりに繋がって「時代の姿まで見えちゃった気がしてくる」のであれば、前半がたるいとか、中盤ダレたとか、そういうことは起きないのだという好事例。いや、そういうの一度観ちゃうと、西洋大河ストーリー何するものぞ、自我を軸とせずとも物語のうねりは十分味わえるぜ、っていう具合に気持ちが大きくなるんだよね。
逆に、一つの自我の在り方にフォーカスして作り込むなら、平田オリザの「暗愚小傳」や「走りながら眠れ」の方が遙かにシャープで、無駄がない作りだと思う。時代のうねりはぐっと後景に下げておいて、でもしかし、主人公の自我(肥大もせず、卑小でもない、極めて等身大の自我)の後ろにあるものが、芝居とみた後にじわじわと染みだしてくる作り方も、これもまたあり。何より、3時間かけてなくて良いのだ。
こうして、二兎を追い、さらに幅広い観劇層(含むover70s+家族連れ)にエンターテイニングだと感じてもらおうとする三兎まで追っかけた、最大公約数の芝居を創ろうとした結果がこれか、ひょっとして。それなら頷けなくもない。僕の好みではなかった、ということだけかもしれない。
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