28/09/2015 20:00 @National Theatre, Dorfman Theatre
三流セミプロフットボールクラブのロッカールームを舞台にした男の三人芝居。
真面目に、丁寧に作ってあって、役者も非常に達者なのだけれど、幕引きも含めて想定の範囲内に収まってしまった、残念な芝居。
と見せかけて、実は、3人の男の決して報われることのない愛の三角関係をねっとりと描いたエローい芝居なんじゃないかと、じわじわ思い始めている。
三人の男達は、
クラブに生涯を捧げ、名選手から監督となるも成果が挙がらず、行方不明となった後にホームレスとなって街に戻り、今では用具係を務める、文字通り「伝説」と呼ばれる老人。
野心に溢れ、成果は上がるがダーティ・プレイ、ラフ・プレイを辞さないそのスタイルが周囲との反目にも繋がる。離婚の危機を抱える監督。
彗星のように現れる若手天才プレーヤー。父親の暴力により右膝に爆弾を抱えるが、それを庇いながらプレーを続ける。「伝説」に敬意を向け、監督のダーティ・プレイ指南には反発する、純なヤツ。
この、一種定型ではあっても魅力的なキャラが、結局のところ、2時間30分かけて、物語が始まって悲劇的に終わるまでを、丁寧に辿ってくれるだけで終わってしまった、つまり、俳優の仕事が物語の説明で尽きてしまった気がして、観終わった後、正直言って不満が残ったのだ。
僕が劇場に期待するのは、「物語でも状況でも良いのだけれど、その中で俳優がどのように振る舞うのか」「状況にどう反応するのか、ということに、俳優がどのように想像力を働かせるのか」であって、物語に奉仕する演技は、いくら上手で丁寧であったとしても、僕が観たいものではない。
それが、僕が新劇よりも現代口語演劇に信頼を寄せる理由であり、今年ロンドンで観た芝居の中でもTempleを推す理由である。そして、いまウェストエンドで上演中のOresteiaでも、前半、物語に立ち向かって凄惨に打ち倒されるアガメムノンが素晴らしく、ただ悲劇に翻弄されるだけのオレステスの物語が全くつまんない所以である。残念ながら、The Red Lionの男のドラマは、そのドラマを丁寧に辿るだけで終わってしまった、気がしたのだ。
が、一点引っかかったことがある。それは、この、フットボールを巡る熱い男のドラマにあって、3人の絡み方が、妙にネットり、ジトッとしていたことなんだ。
芝居の冒頭は、「伝説」の男がチームのユニフォームにアイロンをかけるところから始まるのだけれど、その丁寧さに潜む「身体」の感じ。
若手有望株の若い男の子が出現したときの、老人の目の輝き、いきなりのマッサージ。
その男の子に向かって20cmの距離から両手で頬を挟み、唾を飛ばしてがなり、平手打ちし、自分の思想を叩き込もうとする監督。
現実に男の子を染めようとする監督から「選手を守ってあげたい」と心から思う老人。
現役時代の老人のことを思い出し、熱く語るうちに号泣してしまう監督。
そうした姿の全てが、舞台上で、ねっとり絡み合っているように感じていたんだ。
そうです。この芝居が描きたかったのは、「フットボールというホモソーシャルな空間での男のせめぎ合い」ではなくて、「限りなくホモセクシャルに近い、しかも成就することのない、悲しい男の三角関係」だったのです。
そこに思い至った瞬間、すべてに合点がいった。薄い本のプロットもいくつか挙がってきそうな気すらしてくる。
一見して物語をなぞるだけに見えた2時間30分だが、そのことに拘りすぎてはいけない。男のドラマはフェイクです。これは愛のドラマです。だから、物語のフォーマットは、ある意味、どうでも良い。フットボール愛もどうでもよい。その中から、悲しい愛の姿をあぶり出したことが大事なのです。
どうでしょう?
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