2015年9月24日木曜日

People, Places and Things

19/09/2015 14:30 @National Theatre, Dorfman Theatre

日本に岩井秀人の大傑作「ヒッキー・カンクーン・トルネード」があり、「ヒッキー・ソトニデテミターノ」があるならば、
UKにはこの芝居あり。いわば、「ジャンキー・ソトニデテミタイーノ」である。

題名の"People, Places and Things"というのは、中毒患者がリハブを出た後、近づいちゃいけないと言われている3つのもの。
すなわち、せっかく中毒を治療して出所しても、中毒のきっかけとなるトラウマになった「人物」「場所」「物事」に近づいてしまうと、
そこをきっかけにして元の木阿弥になってしまう、ということなんだそうだ。

主人公の女性は、出来の良過ぎる母と押しの弱い父と出来の良い弟に挟まれて育ち、両親にかわいがられた良い子の弟は死んでしまって出来の悪い自分は生き残り、自意識過剰で、役者志望だが薬と酒でヘロヘロになってリハブに入所。
その彼女の入所から出所までを描いた2時間半。
絵に描いたような「自意識過剰人間」を舞台に載せて、巷の評判も大変高かったものだから、「熱演勘違い女優だったらどうしよう」と心配していたのだが、それは杞憂だった。

確かに主人公は自意識過剰な女なのだけれど、その自意識に、観客に対して「分かってちょうだい!」という押しつけがましさがない。むしろ、その、イタタ、っていうか、おいおい、っていう振る舞いを観ているうちに、不思議とその自意識に近づきたい感じになってくるのだ。
で、リハブのグループセラピーで、
「じゃあ、出所した後、復帰の挨拶を誰かにする、そのリハーサルをしてみましょう。じゃあ、あなた、上司の役ね。」
みたいなことを始めたところで、あれ、これ、ひょっとして演劇療法?ってやつ?
さらに「あぁ、うまくできない!これじゃ復帰できない!もっと上手くやらなきゃ!」っていう自意識で自爆していく入所達の姿が、
そして、社会復帰したと思ったら職員としてリハブに戻ってきたりするところが、やがて、
「あ!この人達、ヒッキーだ!この主人公は、登美男だ!」
という確信に変わった。

日本でヒッキーが傷つきやすい自意識を抱えて日夜悩んでいるとすれば、UKではジャンキー達が、同じく傷つきやすく、そして、西洋人だけに強力な自我を伴ってしまう厄介さもはらんだ自意識を抱えて、やっぱり日夜悩んでいるわけである。

この芝居に出てくるジャンキー達も、それぞれの事情を抱えながら、文字通り生と死の狭間でフラフラしながら、どうすれば自意識と外界との折り合いがつくのか、そもそも折り合いをつけたいのか、ってところでもがき続ける。それが、劇場内の対面客席に挟まれた「タイル張り風の」舞台、ちょうど、田舎の旅館か病院の、薄い青色をした塩素臭いタイルのような壁と天井に囲まれた舞台で描かれている。

この芝居は、従って、ただのジャンキー社会復帰物語ではなくて、自意識と外界のせめぎ合いの話であって、だから、主人公の職業である「女優」という仕事も、やっぱり自意識と「ウソンコの」外界と「リアルな」外界とウソと本音とのせめぎ合いとして、示されていて、だから、この主演女優の自意識が全体のフレームの中できっちり役割を果たして、上手く収まっている。
そして、ジャンキーがいざ出所したときの、「芝居でない、リアルな」外界のキツさといったら!けだし、「人物」と「場所」と「物事」である。

この芝居には、押しつけがましい人は出てくるかもしれないけれど、観客に対する妙な感動や希望や絶望の押しつけはない。泣きはするけど泣かせはしない。でも、劇場を出てからも、色んなことを考える。
主人公のこれからや、ヒッキーのあれからや、自分と世間の折り合いや、「もしかしたらそうなっていたかもしれない」仮定の世界の自分と世間の折り合いについて、色々考える。
そういう風にさせてくれる芝居は、そんなにないと思う。素晴らしい舞台だった。

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